説教
待降節第3主日(A年 2022/12/11)
マタイ11:2−11
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
待降節の第3の蝋燭・バラ色の蝋燭が灯されました。教会は、待降節の第3主日を、「喜びの主日」と呼びます。今日の入祭唱のように、「主に在っていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」からです。(フィリピ4:4、5)
先の主日に続き、今主日の福音も、わたしたちに洗礼者ヨハネを想い起こさせます。彼こそ「主キリストの道を整え、その道筋をまっすぐにする」(マタイ3:3)ために、神によって遣わされた人だからです。事実、今日の福音の内に主ご自身「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人(すなわちヨハネ)のことだ」と、仰せでした。
ただし、洗礼者ヨハネのことを語る今日の福音が、主キリストがペトロを筆頭とする十二人を弟子として選び使徒としてお立てになられたという出来事の直後、に語られていることは見逃せません。それは「主の道を整える」ために神から遣わされたヨハネこそ主の弟子たちすべてのあるべき姿を示しているから、に違いありません。
その洗礼者ヨハネは、今日の福音においては、すでにヘロデ王によって牢獄に繋がれ、今や、彼には殉教の時が近づいています。ヨハネは死を目前にして、彼自身どうしても主キリストご自身から確認しておきたいことがありました。「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか。』」 このヨハネの問いに応えて、
「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。』」
その後ヨハネは、ふたたび主キリストに問うことはありませんでした。彼には、この主のおことばで十分だったからです。
後にマタイによる福音は、洗礼者ヨハネの殉教を語った直後に、主キリストが、「五つのパンと二匹の魚」で五千人の人々を養われた「神の国の食卓」の奇跡を伝えます(マタイ14章)。マタイのこの語り方の順にも深い意味があるはずです。
主キリストは、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられて後、ヨハネの殉教の時まで、「悔い改めよ。神の国は近づいた」と「神の国」の福音の宣教を続けて来られました。しかし、洗礼者ヨハネの殉教の死を転機として、主キリストは「神の国の到来」を告げるのみならず、「五つのパンと二匹の魚の奇跡」が物語るように、大胆に、ご自身の民を「神の国」すなわち「神の国の食卓」に招き入れることを、お始めになられます。わたしたちは、福音書の語るこの事実を見逃してはならないと思います。
同時にこのことは、主キリストにおいて来たるべき「神の国」の本質をも明らかにしています。すなわち、主キリストの「神の国」は、神のみ前に義しい人である洗礼者ヨハネを悲惨な死に至らせるようなこの世の罪を、ご自身の十字架の犠牲によって負いきることによってのみ打ち建てられる、十字架の主キリストのみ国です。
主キリストは、洗礼者ヨハネの殉教の死を決して無駄にはされません。洗礼者ヨハネにとって、さらには、洗礼者にならって主キリストに仕えるわたしたち主の弟子すべてにとって、主キリストが「福音」であるとは、このことでもあると思います。
洗礼者ヨハネは殉教の死を前にして、生涯、主キリストを証しする者として生かされた光栄を、心と思いを尽くして、神への感謝の言葉として次のように語ります。
「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言った・・・。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜び満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」(ヨハネ3:27-30)
主キリストを宿されたマリアさまのご訪問に、聖霊に満たされた母エリサベトの胎内で「喜びおどった」ヨハネでした(ルカ1:41)。聖霊は、洗礼者ヨハネの命の全ての時を祝福し、彼の殉教の死においては、彼を十字架と復活の主に固く結び合わせてくださいました。ヨハネの命は、彼が愛し、命を注ぎ尽くしてお仕えした十字架とご復活の主キリストゆえに、死によっても決して終わりません。わたしたちの命も同じです。「主に在っていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる。」(フィリピ4:4-5)
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。