カトリック上福岡教会

説教

年間第32主日(C年 2022/11/6)

ルカ20:27−38

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

日本の「七五三」を祝う習慣に合わせて、秋のこの時期に「子どもの祝福」を行う教会も多いと思います。マルコによる福音は、子どもたちを祝福された主キリストのご様子を次のように伝えています。

「その時イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れてきた。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』 そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」(マルコ10:13-16)。 主キリストが子どもたちをいかに愛しておられたかが、わたしたちにも強く伝わって参ります。

ところで、この時、主キリストは弟子たちに神の国、すなわち天国に入るために」「子どものように神の国を受け入れなければ」と仰せでした。ただ、ここで「子どものように」とは、大人のわたしたちにとってどうあることなのでしょうか。

先の諸聖人の祭日にマタイによる福音から、「心の貧しい人々は幸いである、天国はその人たちのものである」との主キリストのおことばをお聞きしました。「貧しい人々」とは、主以外に頼る方が誰もない人々のことです。とくに、天国、すなわち神の国に入るために自分たちはまったく無力であり、「神の国の主」キリストに頼る他に天国に入らせていただく術はないと自らわきまえている人々です。

自分の知恵や力に頼れない「貧しい人々」のように、あるいは自分の無力さを素直に認め、それを恥じず、またそれに媚びず、愛してくれる人を信じ、決して疑わず、その愛に素直に自分を委ねる「子どものように」、「神の国に入るために」は、主キリストを疑わず、ただ一筋に主に頼るようにと、主は仰せです。その時、「神の国はそのような者たちのものである(直訳すれば「彼らが神の国なのだ」)と、主は仰せです。

さて、今日の福音は、「復活」を巡っての主キリストとサドカイ人との対話を伝えていました。ファリサイ人と並んで、エルサレム神殿の権威を背景にした宗教的指導者であったサドカイ人は、「貧しい者」や「幼な子」とは全く正反対に、専ら自分たちの知恵や権威に頼っていました。その彼らに主は、次のように仰せでした。

「神は死んだ者の神ではなく、生きているものの神なのだ。全ての人は、神によって(神のみ前に)生きているからである。」

人は自らの知恵や力によってではなく、「神によって生きている」。わたしたちが自らの罪にもかかわらず、神のみ前に生かされてあるのはひとえに神の憐みゆえです。そのわたしたちが主キリストのみ前になすべきことは自らの知恵や力を誇ることではなく、罪を赦し神の国に導き入れてくださる神をこそ誇ることです。

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。」神には、罪ゆえに神のみ前に死んだわたしたちを、み前に生き返らせる、つまり「復活」させてくださることがおできになる。罪人のわたしたちは、自分の知恵や力では、聖なる「神の国」に入ることは出来ません。しかし主キリストにはおできになる。主は、わたしたちの罪を赦し、聖とすることがおできになるからです。ただし、いかにしてしてなのでしょうか。

主キリストご自身の「十字架と復活」によって。すなわち、「十字架の苦難を経て復活の栄光に移られる主キリストご自身の過ぎ越し」によって。

主キリストには、ご自身の「十字架と復活」によって、わたしたちの罪を赦し、神のいのちに復活させ、「神の国」に入らせてくださる力がある。「子どものように」主キリストに頼るわたしたちを「神の国」のいのちに生かすために、主は十字架の犠牲をさえ厭わず、わたしたちにご自身のいのちを惜しみなくお与えくださるのです。

母を疑わず、ひとえに母に頼る子どもには母のこころが良く分かっています。母はその胸に抱く子どものために自分を犠牲にしてでも子どもの命を守ってくれることを。「まして神は」と、預言者イザヤを通して主なる神は、次のように仰せです。

「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。」(イザヤ49:15-16)

子どものように安心して自分を主キリストに委ねるようにと、主はわたしたちに願っておられます。その時、「神の国はそのようなものたちのもの」と主は仰せです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ゆりのイラスト

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