カトリック上福岡教会

説教

王であるキリスト(C年 2022/11/20)

ルカ23:35−43

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

これは、「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、わたしを思い出してください」と主キリストに願った一人の罪人への、十字架上の主のおことばです。

今日、待降節直前の主日を、教会は「王であるキリスト」の祭日として祝います。来主日から始まる四週間の待降節を経て、クリスマス(降誕日)にお迎えする主キリストこそ、父なる神の御独り子であり、わたしたち「すべて」の王であられることを、待降節を控えてあらかじめ深く心に刻み込ませていただくためです。

ただし、わたしたち「すべて」の王キリストは、人知れぬナザレの村の貧しいおとめを母としてお生まれになります。しかも、「王であるキリスト」を祝う今日の福音は、主キリストの十字架の犠牲の死を語ります。まことの神キリストは、わたしたち「すべて」の王となってくださるために、十字架の上で即位されるからです。

しかし、それはなぜでしょうか。「王であるキリスト」の祭日の今日は、わたしたちにとって、神のこの秘義について黙想させていただく時です。

ところで、聖書において「王」は、神によって油注がれ、神と神の民のために、神から託される二つの使命に、正しく奉仕することが期待されています。一つは、わたしたち神の民「すべて」にパンとブドウ酒、つまり命の糧を保証することです。もう一つの使命は、わたしたち神の民「すべて」に、汚れの無いパンとブドウ酒を捧げての主なる神への奉献の礼拝を、まっとうさせる責任を負うことです。

時が満ち、父なる神は御子キリストを「まことの王」としてわたしたちにお与えくださいます。それは、父なる神が歴代の地上の王に託して、しかし果たされることがなかった上の二つの務めを、御子キリストにおいてまっとうしてくださるためです。

そのために、父なる神は、御子キリストをナザレの貧しいおとめを母として、わたしたちにお与えくださいました。そのようにして、神は主キリストによって、わたしたちの内で「最も貧しい者の一人」となってくださいました。それ以外に、主なる神ご自身がわたしたち「すべて」の王となってくださる道はなかったからです。

そのことは、主キリストにおいて非常に具体的な事実でした。主は、人知れぬ寒村で、貧しさの中に生を受け、幼少時より厳しい生活と激しい労働に耐え、苦しむ者と共に苦しみ、泣く者と共に泣き、長じて後の「神の国」の宣教のご生涯においても、家のない旅の生活の困難や辛苦を味わい尽くされました。

わたしたち「すべて」の王となられるために、ご生涯を通してわたしたちの内の「最も貧しい者の一人」となってくださった父なる神の御子キリスト。主はその上さらに、今日の福音が伝えるように、ご自身に「十字架上の戴冠式」を求められたのです。

それは主キリストご自身のからだが裂かれ、血が流されることによってのみまっとうされる王なる主キリストの即位式です。なぜでしょうか。主が王として民の最も貧しい者の生活と思いを知ってくださるだけで十分ではないでしょうか。

実は、今日の福音が語る「主キリストの十字架上の即位式」すなわち十字架における主キリストの自己奉献無しには、冒頭に指摘した、神が「王」に託される第二の使命、すなわちわたしたち「すべて」に、パンとブドウ酒を捧げての神への奉献の礼拝を、真にまっとうさせることは不可能だからです。聖なる神への相応しい唯一の捧げものは、汚れの無い永遠のいのちのパンとブドウ酒、すなわちまことの王キリストご自身の御からだと御血以外には、実際にはあり得ないからです。

それだけではありません。「王」の第一の使命である、わたしたち「すべて」に、いのちの糧であるパンとブドウ酒を保証すること。実際にはこのことも、主キリストの十字架上のご自身のご奉献無しには不可能です。なぜなら、父なる神が御子キリストにおいてわたしたち「すべて」にお与えくださろうとなさるのは、わたしたちのこの世の命を支えるだけのパンとブドウ酒ではありません。実は、わたしたち「すべて」に永遠のいのちを与えるまことのパンとまことの飲み物です。これも、まことの王キリストにとって、ご自分の御からだと御血以外には無いからです。

「王であるキリスト」の祭日の今日、わたしたちはこの唯一の王キリストを礼拝します。そして十字架においてわたしたちすべての王となってくださるこの同じ方を、来週からの待降節の後、わたしたちは、ベツレヘムに聖母マリアさまからお生まれになる「幼子」としてお迎えいたします。それが、主キリストとわたしたちのクリスマスです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ゆりのイラスト

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