説教
年間第33主日(C年 2022/11/13)
ルカ21:5−19
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
翌主日は待降節前主日。教会歴の一年の締め括りの翌主日を、教会は「王であるキリスト」の祭日として祝います。主キリストの御降誕に備える待降節に入る直前の主日に、クリスマスに聖母マリアさまの胸に幼子としてお迎えする神の子キリストこそ、わたしたちの真の王、唯一の主であることを深く心に刻ませていただくためです。
ただし、「王であるキリスト」を祝う主日に読まれる福音は、主キリストの十字架の犠牲の死を語ります。まことの神キリストは、わたしたちの唯一の王となってくださるために、十字架上で王として即位されるからです。(ルカ23:35-43)
主キリストはそのために、すでにエルサレムにお入りになっておられます。今日の福音は、ご自身の十字架を間近に控えての、主の「終末の予告」の冒頭の部分です。主の終末の予告全体は、エルサレムの神殿の崩壊の予告に始まり、神の都エルサレム全体の滅亡の予告を経て、栄光の主キリストの来臨の予告をもって結ばれます。
主キリストの「終末の予告」は、「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話しているとイエスは言われた」ことを契機に語りだされています。主は彼らに仰せです。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、(エルサレム神殿の)一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
天の父なる神は、地上にご自分の「聖名」を置かれるために、人に神殿を建てることを許されました。その神殿を中心に建設された町がエルサレムです。そうであれば、エルサレムに住むことを許される主の民に、主なる神がお求めになられることはただ一つです。それは、主の民が、主がご自身の「聖名」を置かれた神殿に集い、主の「聖名」を、すなわち主なる神を賛美・礼拝させていただくことです。
地上に、主なる神がご自身の「聖名」を置かれる。それは、いかなることなのでしょうか。それは、主ご自身がそこでわたしたちにみことばを語り、祈りをお聞きくださるということです。そのようにして、主がわたしたちにお会いくださる。主のみことばに聞き、祈ることによってわたしたちは主にお会いさせていただけるのです。
しかし、神の「聖名」が置かれた町で、人々はこれまでいかに振舞って来たのでしょうか。主キリストはエルサレムにお入りになる前に、次のように嘆いておられました。
「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからだ。エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。」
神殿がいかに素晴らしくとも、人の手で造られた神殿がわたしたちを救う訳ではありません。神殿の内に主なる神が置かれた「聖名」において、神がわたしたちにお語りになる「神のことば」によって、すなわち、神によってわたしたちは救われるのです。エルサレムの人々は神殿を誇っても、「神のことば」に聞こうとしませんでした。それどころか、彼らは、「神のことば」を携えた「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺してきた」。彼らが、時を置かずに「神のことば」ご自身である主キリストをさえ十字架に付けることになることを、主はすでにご存知です。
確かに、主キリストが今日の福音で「予告」された通り神殿は崩壊し、「神のことば」に聞かぬエルサレムの町は滅亡します。罪によって滅びゆくエルサレムで、しかし罪にもかかわらず滅ぶことをお望みにならないわたしたち罪人のために、実に十字架上で、主キリストは「まことの王」・「栄光の主」として即位されるのです。
ヨハネによる福音も、エルサレムの神殿崩壊を示唆する主キリストのおことばを伝えています。主がエルサレム神殿から両替人等を追い出された際に、主に抗議したユダヤ人たちに主は応えて、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる」と仰せでした。彼らが主に、「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と詰め寄った時、福音は次のように告げます。
「イエスの言われる神殿とは、ご自分のからだのことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスのことばを信じた。」(ヨハネ2:21、22)
神の「聖名」「神のみことば」なる主キリストは、わたしたちに十字架のご自身のからだをもってまことの「神殿」とし、復活の主ご自身をもって、聖霊によって神なる主とわたしたちとの出会いを、今ここに成就してくださるのです。それがごミサです。
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。