カトリック上福岡教会

説教

年間第27主日(C年 2022/10/2)

ルカ17:5−10

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」

これは、主キリストの使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と主に願った時に、主が彼らに応えられたおことばです。しかしなぜ、この時使徒たちは、主にとくに「信仰を増してください」と願ったのでしょうか。信仰による御利益のようなことを求めてのことだったのでしょうか。そうではありません。今日の福音の直前に、主は使徒たちに仰せでした。

「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

実は、兄弟を一日に七回、すなわちどこまでも赦すようにとの主キリストのおことばを受けた使徒たちが、主に、「信仰」を願ったのです。そして、それは正しいことでした。兄弟の罪をどこまでも赦すことは、もはやわたしたちの良心、あるいは倫理観や、それに基づくわたしたちの努力の問題ではなく、わたしたちの力を越えて、優れて「信仰」の問題であることに、使徒たちは気付いたに違いないからです。

そのように、主キリストに「信仰」を求めた使徒たちに、主がお応えになられたのが、説教の冒頭に引用した主のおことばでした。「もしあなたがたに…。」

ところで、「からし種一粒ほどの信仰」との主キリストのおことばから、先に同じルカによる福音(13章)からお聞きした「からし種のたとえ」を想い起こします。主は、「神の国」を「からし種」にたとえて、次のように仰せでした。

「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」

主キリストが語られる「神の国のたとえ」は、わたしたちのただ中で、「神の国の主キリスト」ご自身によってすでに始められている「神の国」の現実と、したがって「神の義」・「神の裁き」の真実と力を明らかにします。罪人であるわたしたちが、罪にもかかわらず主のみ前に生かされてあるのは、ひとえに、主からの「罪の赦し」ゆえです。

そうであれば、わたしたちの兄弟もまた同じく神の「罪の赦し」の恵みの内にあることは明らかです。わたしたちの罪を赦してくださった主キリストへの感謝の内に兄弟の罪をゆるすことは、わたしたちの主キリストへの感謝ゆえ、すなわち「信仰」ゆえです。その「信仰」の内に、聖霊によって「神の国」の恵みと力は宿されています。

「神の国」を「からし種」にたとえられた主キリストが、今日、「からし種一粒ほどの信仰」と言われる時、仮に、「信仰」の事実が、余りにも小さな「からし種」のように人の目には見えないとしても、実は、その「信仰」には、偉大な「神の国」の恵みと力とが宿されていることを、主はわたしたちに想い起こさせてくださいます。その時、わたしたちにとって「信仰」とはいかなる事実、なのでしょうか。

「信仰」とは、「インマヌエル、主がこのわたしとともにいてくださる」という神の事実に、頷かせていただくことです。それはそのまま、このわたしを通して、主キリストご自身が聖霊によって働かれることを認めさせていただくことでもあります。

それゆえ、「信仰」は目には見えなくとも、「神の国」の大きな力を宿しています。「神の国」の主は、信仰の事実・「インマヌエルのキリスト」ご自身だからです。

この「信仰」において、わたしたちは兄弟の罪をどこまでもゆるすことへと導かれます。「からし種」ほどの小さな「信仰」であっても、「信仰」において聖霊が働かれるからです。その時、「聖霊」の内には、わたしたちと兄弟の罪の一切を自らに負い、わたしたちと兄弟の罪を赦し、わたしたちと兄弟を聖霊によって新たにしてくださる、十字架とご復活の主キリストご自身が、活きて働いておられます

兄弟の罪をどこまでもゆるすという最善の業であっても、それが、わたしたちとともにいてくださる主キリストの働き、「信仰」においてわたしたちに働いてくださる「聖霊」の御業であれば、わたしたちが誇るべきものは、わたしたちにおいて聖霊によって働かれる主キリスト以外にはありません。わたしたちは「命じられたことをみな果たしたら」、主キリストに心からの感謝をもって、次のように申し上げるだけです。

「わたしどもは、取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。」

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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