カトリック上福岡教会

説教

年間第29主日(C年 2022/10/16)

ルカ18:1−8

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

今日の福音の「神の国のたとえ」は「やもめと裁判官のたとえ」と呼ばれてきました。主キリストはこの「たとえ」を、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちに語られた」、と福音は語り始めていました。

「気を落とさずに、何を、絶えず祈らなければならない」のでしょうか。主キリストの「たとえ」で、「やもめ」が昼夜を問わず「裁判官」に「気を落とさずに絶えず求め」続けたのは、「正しい裁き」・「正義」です。その「やもめ」の願いに「不正な裁判官」さえ心を動かされ、彼女のために「正しい裁き」を行います。

「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」

「神が裁きを行われる」。今日の「神の国のたとえ」で、主キリストはわたしたちに「神の裁き」・「神の義」を「気を落とさずに絶えず祈る」よう教えておられます。それが「神の国」を待ち望むということです。主はこのたとえの直前に、ファリサイ人の「神の国はいつ来るのか」との問いに応えて、次のように仰せでした。

「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20、21)

「神の国が来る」とは、主なる神がわたしたちに対して「神の裁き」を行い、「神の義」を全うされることです。それは、「ここ」や「あそこ」というような問題ではなく、「あなたがたの間」、すなわち「誰が、誰に対して」と言う問題です。「神の国」とは、「神の国の主」キリストとわたしたちとの「間」に起こる出来事です。

しかしファリサイ人たちは、このことに気付いていなかったように思われてなりません。彼らの「神の国」の問いに応えて、主キリストは続けて仰せでした。「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子(すなわち主キリスト)もその日に現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」

ここで、主キリストは「人の子」、すなわち主ご自身に起こることを語っておられます。それはそのまま、主キリストご自身とファリサイ人たちとの「間」に起こる事実以外の何事でもありません。「神の国」、したがって「神の裁き」・「神の義」の問題は、実に、主キリストと、主を十字架に付ける者たちとの「間」の事柄です。

彼らだけではありません。主キリストはここで、ご自身にわたしたちすべての罪と苦難の一切、わたしたちの「裁きの一切を負われる」ことによって、わたしたちの「裁き主」となられることをもはっきりとお示しになっておられます。「裁き主」キリストご自身の十字架において、「神の国」は来り、「神の裁き」・「神の義」は成るからです。

「神の国はいつ来るのか」と主キリストに尋ねたように、ファリサイ人たちも「神の国」を絶えず祈っていました。しかし後に、彼らは「神の国の主」キリストを十字架に付けることになります。なぜ、そのような事になってしまったのでしょうか。

彼らは、「神の裁き」すなわち「神の義」と「神の国」とを、全く別に考えていたのでしょう。彼らが祈った「神の国」とは、実は彼らの願いの成就であり、「神の裁き」・「神の義」の成就ではなかったのです。「神の国の主」・「裁き主」キリストのみ前に「悔い改め」、彼ら自身が主キリストによって新たにされることではなかったのです。その彼らには、主キリストはむしろ邪魔な存在になってしまったのです。

主キリストは、マタイの伝える「山上の説教」の中で、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)と仰せでした。ファリサイ人たちも、主キリストのこのみことばを聞いていたはずです。しかし、わたしたちにとって、これは他人ごとでしょうか。

ご自身に「裁きの一切を受ける」ことによって、すなわち、ご自身の十字架においてわたしたち罪人の「裁き主」となられる主キリスト。ここに「神の義」が成就されるのです。この主キリストによってのみ、「神の国」は来るのです。主は仰せです。

「言っておくが、神は速やかに裁いて下さる。しかし、人の子が来る時、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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