カトリック上福岡教会

説教

年間第23主日(B年 2021/9/5)

マルコ7:31−37

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

マルコによる福音は、主キリストが、洗礼者ヨハネの殉教の死を契機に、「神の国(の食卓)」のしるしとしての「パンの出来事」をお始めになり、それを繰り返されたことを伝えます。とくに今日の福音は、主の二度目の「パンの出来事」の直前のことです。

そうであれば、今日の福音の伝える、主キリストによる、耳の聞こえない人、口の利けない人の癒しとは、主が彼らを「神の国」へ、さらに「神の国の食卓」へと招かれることの目に見えるしるしとなる出来事ではなかったでしょうか。しかし、「神の国」すなわち「キリストが主である神の国」とは、いかなる「国」なのでしょうか。

今日の福音は、「神の国」とは、「聖霊」の働かれる「国」であるという事実を、目に見える形で、わたしたちに語ってくれているように思います。「聖霊」とは、もちろん「主キリストのであり、直訳すれば「主キリストの(いのちの)のことです。

実際、ヨハネによる福音は、ご復活の主キリストが、弟子たちにご自身を現わしてくださった時、「彼らに息を吹きかけて、『聖霊を受けなさい』と言われた」と、伝えています(ヨハネ20:22)。

今日のマルコによる福音も、主キリストは、「耳が聞こえず、口の利けない」人に、「天を仰いで、深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるようになった」と、伝えていました。

ここで、主キリストは、この人に、「開け」とのことばを以て「息を吹きかけられる」前に、「天を仰がれた」と言われています。このことに注目したいと思います。

主キリストは「天を仰がれ」、この人に向かって「主ご自身の息を吹きかけ」て、「エッファタ」すなわち「開け」と言われた。それは第一には、「この人の耳と口が開く」ようにということであり、事実、この人は主のおことば通り「耳と口」が開かれます。しかし、主キリストの「開け(エッファタ)」とは、彼の「耳と口」が開かれるのに先んじて、「天が開く」ようにということではなかったでしょうか。

「天が開く」「天」とは「神の国」。そして、それは「聖霊の宝庫」です。その「天が開く」。しかし、それは、誰に、でしょうか。もちろん、それは、今、主キリストのみ前に立つ、かつては「耳が聞こえず、口の利けなかった」この人に、です。彼が「神の国(の食卓)」に招かれるとは、彼に対して「天が開く」ことだったのです。

そして、「聖霊の宝庫」である「天が開かれる」時、そこから「聖霊」が注がれます。主キリストが、洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼をお受けになられた時、「天が開けて、聖霊が鳩のように、キリストに降って来た」と、マルコは伝えています(1:10)。

今日の「耳が聞こえず、口の利けない」人の物語は、たんに主キリストの癒しの物語ではありません。「神の国(の食卓)」のしるしとなる出来事のただ中に語られた今日の福音の出来事は、主によって、この人に「天・神の国」が開かれ、この人は聖霊を受けたという事実を語っています。これこそ、「神のみのおできになる業」です。

加えて、大切なことがあります。ヨハネによる福音で、ご復活の主キリストが、弟子たちにご自身の「息」を吹きかけ、「聖霊を受けよ」と言われた時、「聖霊」を受けた弟子たちは、主から「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが許せば、その罪は許される」と言われていました(20:23)。ヨハネは、「罪の赦し」に深く関わって、主キリストによる「聖霊の注ぎ」を語っていたのです。

主キリストから、「聖霊」を受ける。それは、主によって罪を赦していただくことです。それが、わたしたちに「天」、すなわち「神の国」が「開かれる」ということです。

さらに、「聖霊」を受ける時、わたしたちは、「キリストの罪の赦しの使者」とさえされます。主によって罪赦されたわたしたちは、罪に苦しむ多くの人々のために、主キリストが「天を開いてくださる」、その事の証人とさえさせていただけるのです。

そのためにこそ、主キリストはわたしたちの耳と口とを開いてくださいます。開かれた耳で、神のみことばを聞き、開かれた口で、神を賛美させていただくために。「天すなわち神の国が開かれ、聖霊を受ける」その時、わたしたちは罪赦され、耳と口とを開かれて神を礼拝し、さらに主の罪の赦しを伝える使者とされるのです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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