カトリック上福岡教会

説教

年間第19主日(B年 2021/8/8)

ヨハネ6:41−51

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰もわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」

「五つのパン」の出来事の翌日、ふたたび主キリストを訪ねて来た人々と主との対話を、先の主日に続きヨハネによる福音からお聞きしています。

ところで、マタイによる福音によれば、「五つのパン」の出来事は、洗礼者ヨハネの殉教の直後のこととして伝えられています。これには、深い理由があるはずです。

主キリストは、洗礼者ヨハネから、ヨルダン川で洗礼を受けられて後、ヨハネの殉教の死に至るまで、「悔い改めよ。神の国は近づいた(動詞は完了形で「神の国は(主のもとに)来ている」の意)とのみことばで、福音の宣教を続けて来られました。

しかし今や、ヨハネの殉教の死を転機として、主キリストは、人々に、ご自身のみ国である「神の国」が「近づいた(来ている)」と告げるのみならず、彼らを「神の国」、しかもその「食卓」に招き入れることを、お始めになられます。実は、これが、「神の国の食卓」のしるしとしての「五つのパン」の物語で、福音がわたしたちに伝えようとしていることです。

このように、主キリストが、多くの人々を、ご自身のみ国である「神の国」に、さらにその「食卓」に招かれる。それこそ、わたしたちに、主をお遣わしくださった父なる神のみ旨であることを、主は、今日の福音ではっきり仰せになっておられます。

「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰もわたしのもとへ来ることはできない。」

主キリストは、このように仰せになられた上で、父なる神のみ旨にしたがって、ご自身のみ国へと招き入れた人々に対し、さらに、「わたしはその人を終わりの日に復活させる」と、約束なさっておられました。

主キリストの「復活のいのち」つまり「死を越えた永遠のいのち」に与らせるために、彼らが招き入れられた「神の国」、そしてその「食卓」で、彼らが主の復活のいのち(永遠のいのち)に与るための道は、「キリストを食べる」ことだとさえ主は仰せです。

「わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

「神の国」が、「神の国の食卓」のしるしである「五つのパン」の出来事として語られることには、理由があったのです。主キリストは、父なる神が、彼に「引き寄せてくださ」った人々を、主ご自身のみ国である「神の国」に招き入れるだけではなく、彼らのためにそのみ国に「食卓」を、整えてくださっておられたのです。

しかもその「食卓」で、主キリストが、招かれた人々にお与えくださる食物とは、「天から降って来た生きたパン」であり「世を生かすためのわたしの肉」、つまり「キリストのからだ」・「キリストご自身」・ご聖体であると、主ははっきりと仰せです。

先に、主キリストの「神の国の食卓」のしるしである「五つのパン」の出来事は、洗礼者ヨハネの殉教の死に続けて語られていると申しました。このことは、主の「神の国」について、大切なことを明らかにしてくれています。すなわち、「神の国」は、神のみ前に義しい人である洗礼者ヨハネを殉教の死に至らせるようなこの世の罪を、ご自身の十字架で負い切られることによってのみ打ち建てられる、主キリストのみ国であるということです。そして、「この世」とは、わたしたちのことです。

実際、「神の国」に主キリストによって招かれたわたしたちは、律法学者たちから「神の国」に招かれるにふさわしいと称賛されるような者ではありません。むしろ罪人であるわたしたちを、主がご自身の「神の国」に招いてくださるためには、主ご自身が、わたしたちの罪を十字架で負い抜いてくださる以外に道はありません。

「わたしはいのちのパンである」と言われ、ご自身を、わたしたちを「生かすための肉」と仰せの主キリストにとって、わたしたちにいのちをお与えくださることは、わたしたちのためにご自身を十字架で裂いてご聖体としてお与えくださることです。

「五つのパン」の出来事は、主キリストの昔ばなしではありません。今もごミサの度に、主ご自身がわたしたちのためにしてくださっておられる救いの出来事です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ゆりのイラスト

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