カトリック上福岡教会

説教

年間第21主日(B年 2021/8/22)

ヨハネ6:60−69

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。」

わたしたちのごミサのご聖体拝領前の信仰告白は、今日の福音の、ペトロのキリスト告白のこの言葉からとられたものです。

七月から今月の主日にわたって、ヨハネによる福音の伝える「五つのパン」の物語、およびその後の、人々と主キリストとの対話からお聞きしてきました。今日はその結びであり、主の対話の相手は、人々から主の十二弟子に移っています。

主キリストは、「パン」において、人々にお与えになられるものが、実は「キリストのからだ」すなわち主ご自身であることを、すでに人々にくり返しお語りになって来られました。たとえば、主は、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである」と、仰せになっておられました。

しかし、今日の福音の始めに、主キリストのこれらのおことばを聞いて、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」といって、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」と、伝えられていました。

このように、多くの人々が主キリストから離れて行く中で、主の許に留まった十二人の弟子たちに、主は、「あなたがたも離れて行きたいか」と問われました。この主の問いかけに対し、十二弟子を代表して、シモン・ペトロが応えて告白したのが、冒頭のペトロのキリスト告白です。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

十二弟子を代表してのペトロによるこのキリスト告白こそ、彼ら十二弟子と、主キリストを離れて行った多くの人々とを、決定的に分かつものとなりました。

主キリストを離れていった多くの人々も、聖書が彼らを「弟子たちの多くの者」と呼ぶように、その時点まで、主の弟子を自認し、主に彼らなりの期待や希望や願いを託して主に従っていた人々であったはずです。

あるいは、彼らの人間的な期待は、主キリストが、わずかのパンで、男だけでも五千人の人々の食卓を満たされた「五つのパン」の出来事によって、いやましに増し加えられたのかも知れません。彼らは、その奇跡の翌日も、ふたたび主を訪ねて来たと、ヨハネによる福音は先に伝えていました。

しかし、「五つのパン」の出来事の後、主キリストが、彼らに語られた真実は、彼らの期待、あるいは常識から、余りにかけ離れていたのでしょう。主キリストは、「パン」において、彼らに裂いて与えられるものが、「キリストのからだ」・主ご自身であることを、彼らにくり返し語られるばかりでした。

しかも、主キリストはこのことについて、もはや一切説明なさいません。主が、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われる時、それは比喩でも言葉の彩(あや)でもなく、事実以外の何ものでもないからです。

後に、十二弟子との最後の晩餐において主キリストがお語りになられるごミサの制定のおことばも、この事実以外ではありません。福音は、次のように伝えています。「主イエスはすすんで受難に向かう前に、パンを取り、感謝をささげ、割って弟子に与えて仰せになりました。『皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡される、わたしのからだ、である』」。

今、主キリストのこのおことばの前に、わたしたち一人ひとりが問われています。わたしたちも、十二弟子とともに主を信じ、主のおことば通りの真実を受け入れるのか、あるいは、群衆とともに主を離れていきたいのか、を。

ただし、主キリストのおことばに従って、わたしたちが、「キリストのからだ」をいただき、その内に働かれる聖霊によって、「キリストの似姿」、否、「キリストのからだ」に変えられて行く以外に、わたしたちの救いはどこにもないことは明らかです。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。」

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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