カトリック上福岡教会

説教

年間第14主日(B年 2021/7/4)

マルコ6:1−6

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ルカによる福音は、主キリストが少年時代・青年時代を過されたナザレでのご様子を、「両親に仕えてお暮しになった」と、短く美しいことばで伝えています。神の子キリスト。ヨゼフさまから仕事を学ばれ、また母マリアさまを助けて、おふたりとともに汗を流して働いておられた主のお姿が瞼に浮かぶようです。

しかし、主キリストが、ナザレを後にされる時が来ます。洗礼者ヨハネから洗礼を受け、聖霊に満たされて、宣教のご生涯をお始めになられるためです。その後、カファルナウムを中心にガリラヤ地方で、「神の国の福音」を宣べ伝えてしばらくの時を経られた主キリスト。主は、福音を携えて、故郷ナザレの村をお訪ねになります。それが、今日の福音です。

ナザレには、彼の訪問を待ち兼ねていたに違いない母マリアさま。さらに、かつては主キリストと村での生活をともにし、主と一緒に働いたであろう村人たちが、おそらくは期待といささかの戸惑いとともに、ある時、突然村を後にした彼を迎えます。

さて、ナザレでの安息日のこと。村の会堂にお入りになられた主キリストは、ガリラヤの他の村々でと同じように、故郷の人々に「神の国の福音」を宣べ伝えます。ところで、マタイによる福音は、先に、ガリラヤ湖畔で主キリストの福音の宣教、いわゆる『山上の説教』を聞いた人々の様子を、次のように伝えていました。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」

人々は、主キリストに、律法学者には無い「権威」を認めました。「権威」とは聖書の言葉で、「存在そのもの、すなわち主ご自身から出で来たる力」、ないし「存在、つまり主ご自身を切り裂いて(犠牲にして)与えられるもの」を意味し、それは聖霊に他なりません。人々が主に「権威」を認めたという時、それは彼らが、主の内に、主を通して人々に働く聖霊のみ力を認め、主を、ご自身の内に聖霊の働かれる方、すなわち彼らの主なる神・救い主キリストとして受け入れたということです。

このガリラヤ湖畔の人々のように、主キリストの故郷ナザレの人々も、「多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か』」と、当初は主のみことばとみ業に驚き、深く心を動かされます。

しかし彼らは、「待てよ」と、思い直します。そして、「『この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、(ナザレの)人々はイエスに躓いた」、とマルコによる福音は伝えます。

主キリストに「躓いた」。彼らは、彼らの理解を超えた主を受け入れられず、したがって、彼に、主キリストとしての権威を認めることができませんでした。すなわち、主の内に働かれる聖霊を認めることができず、主を、彼らの救い主・神なる主キリストとして、受け入れることができませんでした。

その時、主キリストは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と仰せになられ、「そして、人々の不信仰に驚かれた」と、マルコによる福音は、主の故郷ナザレの村での体験を結んでいます。

ただし、これはナザレの人々だけの問題ではないでしょう。わたしたちも、同じ主キリストの前に、わたしたち自身が、さらにわたしたちの信仰が、問われていると思います。わたしたちも、主キリストにまことの「権威」を認めることができるか否か。言いかえれば、主の内に働かれる聖霊のみ力を認め、したがって主を、ご自身の内に聖霊の働かれる方、すなわち神なる主・救い主キリストとして受け入れることができるか否か。それが、今、このわたしに、問われています。

ナザレの人々が、主キリストにまことの権威を認めることを拒んだ時、彼らは主から聖霊を受けることを拒んだのです。それを、主は不信仰と言われます。なぜなら、信仰とは、主キリストから聖霊、すなわちわたしたちにご自身を裂いてお与えくださる主ご自身のいのち、をいただくこと以外の何ものでもないからです。

主キリストの権威を認め、主から聖霊を受けさせていただ。その時、聖霊がわたしたちの内に働き、わたしたちを主キリストご自身の似姿に変えていってくださる。信仰とは、主なる神キリストからいただく聖霊によるわたしたちの新しい命の創造です。

主キリストはその聖霊をわたしたちにご聖体においてくださる。それがごミサです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ゆりのイラスト

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