カトリック上福岡教会

説教

年間第16主日(B年 2021/7/18)

マルコ6:30−34

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「イエスは船から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」

これは、使徒たちが主キリストから派遣された後、ふたたび「イエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」、その後のことです。しかし、これは一体、どういうことなのでしょうか。

主キリストは、十二人使徒を派遣されるに先立ち、ご自身で「町や村を残らず回」られた上で、わたしたちが「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ」(マタイ9:35、36)、使徒たちを「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」わたしたちの魂の牧者として、魂の配慮・霊性の司牧のために派遣されました。このことは、先の主日にお聞きしたはずです。

しかし今日、マルコが語るのは、その後、のわたしたちの様子なのです。使徒たちがすでに宣教に遣わされたにもかかわらず、その後、「イエスは・・・、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」

あらためて、これは一体、どういうことなのでしょうか。わたしたちに対する使徒たちの魂の配慮・霊性の司牧が不十分だったのでしょうか。あるいは、問題はわたしたちの側で、わたしたちが主と使徒たちに期待していたのは、わたしたちへの魂の配慮と霊性の司牧ということではなかった、ということだったのでしょうか。

わたしたち信仰者の霊性のしるしとは何でしょうか? 日本にカトリックが伝えられた472年前の1549年から数十年の間に、カトリックの人口は、その当時の日本の総人口を500万中約50万人に達したとさえ言われます。現在の日本の総人口1億2千万中カトリック信者約40万と比べれば、けた違いです。何が、これほどに当時の日本人をカトリック(キリシタン)の信仰、キリストとの出会いの感動がとらえたのか? それは、日本人が初めて得た魂の自由であったという指摘があります。

「もし、わたしたちが、まことにして唯一の神を畏れるならば、神ならぬ一切のものに対する恐れから自由である。しかし、もしまことにして唯一の神を畏れないならば、神ならぬ一切のものを恐れて生きるほかはない」。これは、第2次大戦中、ナチの軍靴の響きの中でカール・バルトというスイス人の神学者によって語られた、実に勇気のある言葉です。そして、これは、いつの時代においても真実であると思います。

16世紀の多くの日本人にとって、主キリストとの出会いは、まさに、この「まことにして唯一の神」との出会いの体験であったはずです。唯一の神をのみ畏れ、神ならぬ一切のものに対する全く無用な恐れや、人や権威に対する「忖度」から解放された魂の自由。そして、彼らに始めて経験され、自覚された霊性の発露と、主に在ってのその霊性の成長・成熟の予感に魂が打ち震えた時であったのではないでしょうか。

確かに、その後日本のカトリック教会は長期に亘る厳しい禁教と迫害を経験いたしました。しかし、再宣教からすでに170年余の時がすでに経過していることも事実です。先の主日、故岡田大司教さまが、さいたま教区管理者時代の司牧書簡から、さいたま教区の第一の課題は、司牧者および信者すべての霊的成長であるとの厳しいご指摘を再度思い起こしました。これは、第一にわたしたち司祭の責任です。主キリストに派遣された司牧者の第一の務めは、信者の皆さんの霊性の司牧、すなわち、皆さんの魂の配慮と霊性の司牧に奉仕することだからです。

もし、主キリストが、今、わたしたちを再度お訪ねになられたとしたならば、主がご覧になるのはいかなるわたしたちでしょうか。現在のわたしたちは、霊性の司牧のために主キリストから遣わされた司牧者からていねいな魂の配慮を受け、秘跡、とりわけご聖体の秘跡・ごミサを通して、主のみことばとご聖体に養われ、いただいた聖霊の恵みとそのお働きによって、健やかに、かつ豊かに整えられ、魂のまったき自由の内に、十分に霊的に成長した、日本の誰にとっても魅力ある「主の民」でしょうか。

あるいは、未だ「飼い主のいない羊のような」「群衆」なのでしょうか。主キリストが司牧者を遣わされたのに、今なお、真実のご聖体の秘跡・ごミサにおける聖霊の体験、すなわちご聖体の主キリストの内に、確実に力強く働かれる聖霊による魂の癒しと霊的成長の恵み、まさに魂の自由が体験されていないままのわたしたちでしょうか。そのようなわたしたちであれば、日本の誰に対しても魅力はありません。

「聖霊、来てください。」ご聖体の主キリストの内に、聖霊が、日本の教会、司牧者と信者の皆さんすべてに強く豊かに働いてくださり、主ご自身が、今なお「飼い主のいない羊」のようなわたしたちの真の魂・霊性の牧者となってくださいますように。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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