カトリック上福岡教会

説教

年間第12主日(B年 2021/6/20)

マルコ4:35−41

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の主日、わたしたちは主キリストの「神の国のたとえ」からお聞きいたしました。

聖書の「神の国のたとえ」は、わたしたちが「神の国」の主キリストに招かれて、主ととともにすでに体験している「神の国」の事実と、その事実の内に隠された真実と力にわたしたちの目を開かせてくれるものです。

わたしたちは、すでに過去となった神の創造のみ業の結果の中に住んでいるのではなく、「聖霊」による新しい神の創造のみ業の内に、主キリストによって、今、生かされてあるのです。それが、主によってわたしたちが「神の国」に招かれているということであり、「神の国」の主がわたしたちとともにいてくださるということです。

このことは、決して形而上学的真理と言うようなものではありません。驚くべき出来事としてわたしたちに体験される事実です。例えば、今日の福音の物語のように。

主キリストが、弟子たちとともに、一日の「神の国」の宣教の働きを終えられて、ガリラヤの湖を舟で向こう岸に渡って行こうとしておられた時のことでした。「激しい突風が起こり、船は波をかぶって、水浸しになるほどであった」と、今日の福音は、その時の様子を伝えていました。

「しかし」、と福音は続けます。「イエスは、艫の方で枕をして眠っておられた。」

ただし、弟子たちは、たまったものではありません。死の恐怖にかられた「弟子たちはイエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』」と、イエスに詰め寄ります。これに対して、

「イエスは起き上って、風を叱り、湖に、『黙れ、静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。」

主キリストによる「しるし」の出来事の物語です。わたしたちは、福音の伝えるこの出来事が事実であったことを、疑う理由は何もありません。今日の福音を伝えたマルコは、この出来事の当事者であった使徒ペトロの直弟子だからです。

ただし、マルコが、今日の福音の出来事を、あえて、主キリストの「神の国のたとえ」の直後に伝えるのには理由があると思います。マルコは、「神の国のたとえ」を受けて、その「たとえ」の示す真実、すなわち「神の国」の主キリストが、天地の創造主であり、かつ支配者であられるということを、今日の福音の物語を通して証ししようとしているのではないでしょうか。

実際、マルコは今日の福音で、主キリストが、「起き上って、風を叱り、湖に、『黙れ、静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった」と伝えた後で、「弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った」と、物語を結んでいました。

主キリストの「しるし」の出来事は、この時弟子たちに「助かった」と言う安堵以上に、「風と海を支配するこの方は、いったい誰か」との問いを引き出しています。ただし、弟子たちは、その答えをすでに知っていたはずです。風と海(湖)を支配することがおできになるのは神以外にはおられないからです。旧約聖書『創世記』の冒頭の、創造主である神の物語は、次のように語り始められていました。

「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた、『光あれ。』こうして光があった。」

ここで、主キリストの話されたユダヤの言葉では、「湖」、「水」、「海」、「深淵」は同義語です。また、「風」と「霊」はまったく同じ言葉です。したがって、事柄は明確です。マルコが、主が「風と湖」を支配されたことを伝える時、マルコにとってそのことは、主キリストこそ、天地の創造主・支配者である神であられる、と言う明らかな宣言以外の何ものでもありません。つまり、主こそ、神である。同時に、それが、「「風と湖」を支配されるこの方は誰か」との弟子たちの問いへの、そしてわたしたちすべてへの、マルコの答えです。

加えて、船の中で眠っておられた主キリストが、起き上って「風と湖」を「叱られた」(「支配された」)と、マルコが伝える時、そこには、死から復活された主キリストのお姿が鮮やかです。「復活する」と訳された言葉は、ユダヤの言葉でも福音書のギリシャ語でも、「倒れている者を抱き起こす」、あるいは、「病む者を介抱する」と言う意味だからです。マルコが今日の福音の物語に続けて、主キリストによる「病む人の癒し」の物語を二つ語り続けることにも、実は、十分な理由があるはずです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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