カトリック上福岡教会

説教

聖母のみ心(B年 2021/6/12)

ルカ2:41−51

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「母は、これらのことをすべて心に納めていた。」

昨日の「イエスのみ心」の祭日に続いて、今日教会が、「聖母のみ心」の祝日をお祝いすることは、教会にとって、まことに相応しいことであると思います。

この祝日は、1944年、第2次大戦が、大きすぎる犠牲を以て、悲劇的に終結する前年に、教皇ピオ12世によって定められたものです。主キリストを信じる多くの人たちをも含めて、世界が二つに分かれて争ったという厳しい事実。教皇さまは、このことに、聖母マリアさまがいかにお心を痛めておられるかを、深く思われたに違いありません。なぜなら、すべての民は一人の聖母マリアさまの子どもたちだからです。

明らかに聖母さまのお心に反して互いに争うわたしたちに、聖母さまのお取次ぎを祈り、聖母さまのみ心を今一度深く黙想させていただきたい。「聖母のみ心」の祝日に込められたピオ12世教皇の願いは、直ぐに教会全体の祈りと願いとなりました。

昨日の「イエスのみ心」の祭日の福音で、槍で裂かれて血を流しておられる十字架上の主キリストの「み心」を、ヨハネは、次のように伝えていました。

「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。するとすぐ血と水とが流れ出た。」

しかし、この時、み心を槍で刺し貫かれたのは、主キリストだけではなく、聖母さまも同様であったのではないでしょうか。ルカによる福音は、主キリスト誕生後の清めの期間の後、エルサレムの神殿で、主が聖母さまとヨゼフさまによって神に捧げられた時、聖母さまは、シメオンから次のように告げられたと、伝えています。

「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ちあがらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

このように、主キリストが、そのみ心を槍で刺し貫かれる時、「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と、聖母さまは、シメオンからはっきりと告げられています。

槍でみ心を刺し貫かれる。聖母マリアさまは、十字架の上の御子・主キリストと、この痛みをともにされます。その痛み。十字架の上で、最愛の息子が、そのみ心を槍で刺し貫かれる。それを、十字架の下で、ただ、見上げる他に術がなかった聖母さま。その時、そのみ心を槍で刺し貫かれる痛みは、あるいは、十字架上の御子キリストにまして、十字架の下に立つ聖母さまに、より耐え難かったかも知れません。

今日のルカのよる福音は、再び神殿での主キリストのご様子を伝えています。しかし、主が誕生後に神殿で奉献されてから、すでに十二年が経過しています。過越祭に、主を伴って神殿に上られた聖母さまとヨゼフさまが、祭りの後、ガリラヤのナザレに帰ろうとしてすでに一日分の道のりを歩いた後のことでした。一行の内に、主が見当たらないことに気付いた聖母さまとヨゼフさまは、エルサレムに引き返し、神殿で、学者たちと議論を続けている主を見つけます。

この時聖母さまは、主キリストに、「なぜこんなことをしてくれたのですか。ご覧なさい。お父さんもわたしも心配していたのです」と、語りました。主は、聖母さまに、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と、お応えしました。

ルカによる福音は、この時、聖母マリアさまには「イエスの言葉の意味が分からなかった」と伝えています。しかし、同時に聖母さまは、「これらのことをすべて心に納めていた」とも、伝えています。

主キリストの十字架。そこで起こっていることは、神殿での十二歳の主の時に増して、聖母マリアさまの理解を遥かに超えたことであったに違いありません。しかし、この時も、聖母さまはそのすべてを「み心に納められた」のではないでしょうか。

主キリストのすべてを、十字架の下でそのみ心に納められた聖母さまのみ心もまた、十字架の上の主キリストとともに、槍で刺し貫かれていたに違いありません。それは、十字架上で槍に刺し貫かれた御子キリストのみ心の痛み、そのみ心から湧き出る血と水を、十字架の下で聖母さまが後のわたしたちとともにしてくださるためでした。

主キリストのみ心の祭日に続いて、聖母さまのみ心を記念する。主とともに、聖母さまのみ心も、槍で刺し貫かれたからです。今日わたしたちは、御子にとってだけではなく、わたしたちすべてにとっての母である聖母さまのみ心を、記念しています。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ゆりのイラスト

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