カトリック上福岡教会

説教

イエスのみ心(B年 2021/6/11)

ヨハネ19:31−37

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日は、「イエスのみ心」の祭日です。この祭日を、「キリストの聖体」の祭日後の金曜日に祝うことには、大切な意味があると思います。

先のご聖体の祭日には、主キリストが「最後の晩餐」で、わたしたちのためにご聖体の秘跡であるごミサおよび司祭叙階の秘跡を制定してくださったことを記念しました。そして、司祭を用いてごミサの度に、ごミサの内に、ご復活の主キリストが、ご聖体において現存されることの感謝と確信を、新たにさせていただきました。

そのご聖体の祭日に続いて祝われる、「イエスのみ心」の祭日の今日、主キリストのみ心とは、他でもない、ご聖体において現存されるご復活の主キリストご自身のみ心です。そのご栄光を、わたしたちはご聖体の内に、感謝をもって仰ぎ見させていただきます。聖マルガリタ・マリア・アラコックも、ご聖体のキリストのみ前での祈りと黙想の中で、主キリストご自身から、主ご自身のみ心を示されました。

「イエスのみ心」。それは、十字架においてわたしたちの罪の赦しを成就し、さらにわたしたちへの愛ゆえに、死に打ち勝って復活してくださった、ご復活の主キリストのみ心です。そのイエスのみ心。聖マルガリタに示された主キリストのみ心は、わたしたちに対する燃える愛でした。その愛から、わたしたちを引き離すことは、誰にも出来ません。ご復活の主キリストの使徒パウロは、次のように、語ります。

「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か、…わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

ご復活の主キリストのみ心は、主のこの燃える愛です。主キリストのみ心は、艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣等々によっても傷つかないというような、無感情で非人格的な心では、決してありません。そうではなく、それらすべてによって誰よりも深く傷つき、血を流されたみ心です。わたしたちの救いのためにあつく燃えるみ心です。事実、十字架で槍に刺し貫かれ、わたしたちのために、救いの血と水を流し尽くされたみ心です。それは、今日のヨハネによる福音が、証言している通りです。

「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。するとすぐ血と水とが流れ出た。」

主キリストの十字架は、最後の晩餐で、主が弟子たちと祝われた、主とわたしたちの過越の成就。そうであれば、十字架の主のみ心から流れ出た御血は、ご聖体の秘跡。さらに、水は、聖霊による洗礼の秘跡。主は、十字架の上で貫かれたご自身のみ心から、この血と水を流して、教会の二つの秘跡の源となってくださいました。それは、わたしたちの過越、わたしたちの救いを、永遠に教会に成就してくださるためです。

先のご聖体の祭日に、ご聖体において現存されるご復活の主キリストにお会いさせていただいたわたしたちは、さらに「イエスのみ心」の祭日の今日、ご聖体において、文字通りご復活の主キリストの「み心」に出会わせていただきます。むしろ、主の「み心」を懺悔と感謝の内にいただきます。そして、その主の「み心」には、槍で刺し貫かれた傷があります。それは、わたしたちの罪が刺し貫いた主の「み心」の傷跡です。

ここでわたしたちは、同じヨハネによる福音が伝える、ご復活の主キリストとトマスとの出会いのことを思い起こします。主のご復活の日、トマス一人だけが、他の弟子たちとともにいませんでした。他の弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言っても、トマスは信じることができず、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、わたしは決して信じない」とさえ、断言して憚りませんでした。

ご復活の主キリストは、このトマスを訪ねて、仰せになりました。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

「わたしの主、わたしの神よ。」その時、ご復活の主キリスト・イエスのみ心、槍で裂かれて血を流されているイエスのみ心を仰いで、トマスが主に応え得た、これが唯一のことばです。しかし、それで十分でした。後の教会は今に至るまで、このトマスの信仰のことばをわたしたち自身の信仰のことばとして、ご聖体をいただく度ごとに、「わたしの主、わたしの神よ」と、ご復活の主キリストに、わたしたちのための傷跡の残るその主のみ心に、懺悔と感謝とともに、呼びかけ続けて参りました。

十字架とご復活のイエスのみ心。尽きることの無いいのちの泉である、ご聖体の主キリストのみ心から、主のわたしたちへの燃える愛と、ご自身を犠牲にしてまでわたしたちを生かしてくださるいのちの水が溢れ出ます。わたしたちは、イエスのみ心、そのいのちの泉から、喜びの内に、恵みの信仰を汲み取らせていただくのです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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