カトリック上福岡教会

説教

復活節第6主日(B年 2021/5/9)

ヨハネ15:9−17

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「神は愛です。」(1ヨハネ4:8b)

この言葉を、主キリストの十字架とご復活の後、主の弟子ヨハネはどのような思いで綴ったのでしょうか。彼は、さらに次のように手紙の文章を続けます。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。」(1ヨハネ4:9)

主キリストに愛された使徒ヨハネには、主の十字架とご復活を経て、彼の心の内に明らかにされて来た事実があったはずです。それは、神はその愛を主キリストによって現わされた、すなわち、神の愛は主キリストである、と言う事実です。

愛とは、たんなる教えではありません。愛とは、人のために命を捧げることです。それは、今日の福音で主キリストご自身が、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と、極めて具体的に仰っておられる通りです。

事実、愛とは具体的である他ないものではないでしょうか。神は、一人ひとり異なるわたしたちを、一人ひとり掛け替えのない子として愛してくださいます。

「神は愛です。」それは、天の父なる神が、御子キリストにおいて、この地上で、このわたしたち一人ひとりを愛し、わたしたち一人ひとりにご自身のいのちをお与えくださったと言うことです。ヨハネは、彼の言葉を次のように結んでいます。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネ4:10)

「ここに神の愛がある。」ここ。それは、主キリストの十字架とご復活です。

その主キリストご自身、今日の福音の内に、わたしたちに仰せになられます。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」そして、「わたしの愛にとどまりなさい。」

主キリストの愛に「とどまる」。この「とどまる」と言う言葉は、先週の主日の福音の主の「ぶどうの木のたとえ」の中で、ぶどうの枝であるわたしたちが、ぶどうの木である主に「つながる」と言う時の「つながる」と言う言葉と同じです。

主キリストの愛にとどまる。それは、ちょうどぶどうの枝が、ぶどうの木に堅くつながるように、わたしたちが、主にしっかりとつながらせていただくと言うことです。そのわたしたちに主は、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15:5)と、約束しておられました。

同じことを、今日の福音で、主キリストは次のように仰っておられました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願う者は何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」

主キリストは、既に、わたしたちを選んでおられます。それは、主がわたしたちに、主ご自身のみことばによって、みことばなる主ご自身をご聖体としてお与えくださることによって、すなわち主の自己犠牲によって、既に、わたしたちをぶどうの木であるご自身の枝としてしっかりと結び付けてくださっておられる、ということです。

二つの理由を、主キリストは仰せでした。第一は、枝であるわたしたちが、ぶどうの木である主からいのちの水を十分に受けて、豊かな実を結ぶために。次に、わたしたちが主のみ名によって祈る時、父がその祈りを聞いてくださるために。

実は、これらはともに、わたしたち自身のためだけではなく、主キリストの救いと主の愛を求めるさらに多くの人々を、主の愛で満たすためであるに違いありません。

今日の福音を、主キリストは、次のおことばで結んでおられます。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

主キリストに愛された者として、主の愛の内に、主の愛に応えて、神と人とのために生涯を捧げて主の愛に生きる。この主の愛のご命令は、主のわたしたちへの、愛の主とともにある喜びに満ちた新しいいのちへの招待であるに違いありません。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ゆりのイラスト

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