カトリック上福岡教会

説教

聖霊降臨の主日(B年 2021/5/23)

ヨハネ15:26−27、16:12−15

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」

先に、主キリストのご昇天の証人とされたわたしたちは、今日、主の約束された聖霊の降臨を祝い、またその証人とされるべく、再び、主のみ前に集められました。

ここでわたしたちは、弟子たちとの最後の晩餐での主キリストの説教のおことばを、もう一度想い起こすようにと求められています。それが、今日の福音です。

最後の晩餐の間中、主キリストは、弟子たちとの晩餐に続くご自身の十字架をはっきりと見つめておられたはずです。しかしその時でさえ、否、その時こそ、主のお心を占めておられたのは、十字架の後に残されるわたしたち弟子たちの事だけです。

そのわたしたちに、主キリストはご自身の十字架とご復活、さらにご昇天の後、「真理の霊」を送ってくださること、そして「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と、約束してくださいました。

ここで、主キリストがお送りくださる「真理の霊」。今日の福音では、主はそのお方のことを「弁護者」とお呼びになっておられました。

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証をなさるはずである。」

「真理の霊」、すなわち「弁護者」が、わたしたちのために主キリストご自身の十字架の死の犠牲と引き換えに与えられることは、主の次のおことばからも明らかです。

「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたたちのところに送る。」

それにしても、主キリストは、ここで、「真理の霊」つまり「聖霊」のことを、なぜ「弁護者」とお呼びになっておられるのでしょうか。

「弁護者」。じつは、これはギリシャ語で、元来「(人を助けるために)傍らに呼ばれた人」を意味する言葉です。従って、助け手、介護者、保護者とも訳されて来ました。

先にわたしは、「復活」すると訳されている言葉は、『福音書』のギリシャ語、さらにその背後に考えられるユダヤの言葉でも、傷ついた人を介抱する、あるいは、倒れた人を抱き起こすと言う意味で、日常使われる言葉でもあると申し上げました。

主キリストのご復活。そこには、傷ついたわたしたちを介抱してくださる主、倒れ、あるいは死んでさえいたわたしたちを抱き起こしてくださる主が、立っておられます。

このご復活の主キリストのお姿。それは、今日の福音で、主キリストが十字架の後に、ご自身の十字架の死と引き換えにわたしたちにお与えくださる「弁護者」、むしろ「助け手」、「介護者」、「保護者」のお姿と、明らかに重なり合っています。

そして、「弁護者」とも呼ばれるその方こそ「聖霊」なる主であられることは、最後の晩餐の説教の中で、主キリストご自身が繰り返し明らかにしておられる通りです。

しかし、この「弁護者」である「聖霊」が、主キリストから遣わされて来られる時、そこにはどのようなわたしたちの姿があるのでしょうか。それは、傷つき、倒れ、あるいは、主のみ前に命を失ってさえいるわたしたち、ご復活の主キリストに抱き起こされることを、ひたすら待ち望んでいるわたしたちの姿ではないでしょうか。

「真理の霊」は、そのわたしたちを「導いて、真理をことごとく悟らせてくださる。」「真理の霊」が、「聖霊」つまり「ご復活のキリストの霊」に他ならない以上、「真理の霊」がわたしたちを導く「真理」とは、ご復活の主キリストご自身に他なりません。

「聖霊降臨」の今日、ご昇天の主キリストがお遣わしくださる「真理の霊」・「聖霊」は、わたしたちをご復活の主へとお導きくださいます。「弁護者」なる「聖霊」は、わたしたち一人ひとり、主のみ前に倒れ、死んでさえいるわたしたちを確実に抱き起こし、命へと回復してくださるご復活の主のみ腕の内に確実に導き入れてくださいます。

「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」「聖霊」が遣わされるところ、そこには、わたしたちの前にご復活の主キリストが確実にお立ちになっておられます。そして、ごミサこそまさにその主キリストとの出会いの時です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ゆりのイラスト

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