カトリック上福岡教会

説教

復活節第5主日(B年 2021/5/2)

ヨハネ15:1−8

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。

ヨハネによる福音は、主キリストの最後の晩餐での十二弟子への説教と祈りを、五章にもわたって、実にていねいに伝えてくれています。今日の福音はその一節で、その内容からとくに、主の「ぶどうの木のたとえ」とも呼ばれてきました。

聖地を旅行された方は、お気付きと思います。ぶどうは乾燥した地で生育し得る数少ない植物です。しかもそのような地において、とりわけ豊かに水分を蓄える事のできるぶどうは、日本でいう果物と言うよりも、乾燥した地の人々にとっていのちの水ともいい得る、まことに貴重な植物です。

主キリストは、わたしたちに「わたしはぶどうの木」と、仰ってくださいました。主のおことばには、水を求めて得られないような荒地においても、主はわたしたちに豊かにいのちの水を与えることがおできになる、との主のおこころを強く感じます。

「わたしはぶどうの木」と言われた主キリストは、さらにわたしたちに、「あなたがたはその枝である」と仰せでした。「ぶどうの木」である主に、「枝」として繋がらせていただかなければ生きることができないわたしたちであることを、主は良くご存知です。わたしたちは誰一人、いのちの水なしに生きることはできないからです。

ところで、主キリストは続けて、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と、仰せになっておられました。

一つのことに気付きます。主キリストは、わたしたちをぶどうの木の「枝」であると仰っておられるのであって、「実」であると仰ってはおられません!

主キリストはわたしたちを、ぶどうの「実」ではなく、主のぶどうの木の「枝」としてくださいました。「枝」であるわたしたちが、主なるぶどうの木からの豊かないのちの水を受けて生きるのみならず、「豊かに実を結ぶためであると、主は仰せです。

「ぶどうの実」は、わたしたちという「枝」を通して、「ぶどうの木」である主キリストからのいのちの水を豊かに蓄えさせていただきます。そのわたしたちという「枝」を通して多くの「実」が豊かに受けるのは、主のいのちです。

ところで、わたしたちに、「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」と仰せになられた主キリストは、天の父なる神については、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と、仰っておられました。

その上で、主キリストは続けて、父なる神ご自身が農夫として、ぶどうの木の枝を手入れしてくださる。実を結ばない枝は取り除かれ、実を結ぶ枝は、さらに豊かに実を結ぶようにしてくださる、と仰せになられました。わたしたちは、どちらでしょうか。

実は、主キリストは、決定的に大切なことを、わたしたちに仰せになっておられました。「わたしの話したことばによって、あなたがたは既に清くなっている。」

「既に」です過去の、あるいは今後のわたしたちの様子を見て、ではありません。主キリストは、わたしたちに与えられたみことばによって、「既に」わたしたちを聖くしてくださった。父なる神は、みことばなる主を与えてわたしたちを、「既に」父なる神のもの・豊かな「実」を結び得る枝としてくださっておられる、と主は仰せです。

「わたしの話したことばによって、あなたがたは既に清くなっている。」わたしたちを聖くすることがおできになるのは、聖霊のみです。つまり、主キリストは、ご自身であるみことばをわたしたちにお与えくださることによって、「既に」わたしたちに、聖霊をお与えになっておられる、と仰っておられるのです。

事柄は明確です。主キリストがわたしたちにみことばをくださる、それはみことばなる主ご自身をくださることです。みことばなる主は、聖霊なる主ご自身です。

主キリストの「ぶどうの木のたとえ」は、最後の晩餐での主の説教の一節です。そこでの主の約束は、最後の晩餐を経て十字架で裂かれ、わたしたちに与えられる主ご自身、つまりご聖体において、わたしたちに聖霊をくださる、ということです。

主キリストのみことばとご聖体において聖霊をいただいたわたしたちは、聖霊によって既に聖くされている、と主は仰せです。それはわたしたち、さらにわたしたちを通して多くの人が、主から同じいのちの水をいただいて豊かに生きるためです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ゆりのイラスト

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