説教
復活の主日・日中のミサ(B年 2021/4/4)
ヨハネ20:1−9
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
主のご復活の日の朝早く、マグダラのマリアは、主キリストのおからだが納められた墓を訪ねました。しかし、その墓の内に、主を見つけることは出来ませんでした。ヨハネによる福音は、そのように伝えています。
イエスさまにもう一度お会いしたい。主キリストへの切ないほどのマグダラのマリアのこの一途な思い。しかし、訪ねた主の墓が空であった時のマリアの驚きと落胆。それは、皆さんもよくお分かりになると思います。
しかし、「その時」と、ヨハネによる福音は、続けて、マグダラのマリアとご復活の主キリストご自身との驚くべき出会いを伝えます。
マリアが「空の墓の外に立って泣いていた」「その時」、彼女は、「マリア」と彼女の名を呼ぶ声を聞いたのです。忘れもしないその声に、マリアは即座に、彼女の言葉で主キリストに、「ラボニ」と、お応えしました。「わたしの先生」と言う意味です。
「わたしの先生」。この短い言葉にマリアの逸る心を感じます。再び見(まみ)えることができたご復活の主キリスト。主に縋りつきたい。しかしこの時、主キリストはマリアに、「わたしに縋りつくのはよしなさい」と仰せになりました。なぜでしょうか。
マグダラのマリアだけでは無いと思います。実は、気付かないままにわたしたち一人ひとりも、「わたしの」思いの中に、「わたしの」小さな愛の中に、「わたしの」願いの中に、主キリストを求め続けて来たのではなかったでしょうか。
しかしご復活の主キリストは、逆にわたしたちが、「主の」内に、「主の」深い願いの内に、「主の」大きな愛の内にわたしたち自身を見いだすことを求めておられます。
主キリストは、エルサレムに最後に入城された直後、神殿での説教で人々に、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12:32)と、仰せになっておられました。
このみことばで主キリストは、ご自身の十字架に続くご復活が、聖霊による主ご自身の新しいいのちの始めであるとともに、主の十字架によって主に結び合わされたわたしたち自身の復活のいのちの始めでもあることを、語り示しておられます。そしてそのことを、復活の主キリストの使徒パウロは次のように語っています。
「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。…あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3:1−4)
ご復活の主キリストが、マグダラのマリアに、「わたしに縋りつくのはよしなさい」と仰せになられた時、主は、続けて次のように念を押しておられました。「わたしは、まだ父のもとへ上っていないのだから。」(ヨハネ20:17)
ご復活の主キリストは、決してご自分だけが「天の父のもとに上っていないのだから」と仰っておられるのではないと思います。ご復活の主のいのちとともに、マリアの命も、まだ天の父のもとに高く上げられていないのだから、ということです。
しかし、ご復活の主キリストが天の父のもとに高く上られる時、必ずやマリアの命も主とともに、主によって引き上げられて、天に高く上げられた主のご復活のいのちと一つとされます。ただしそれは、マリアが、ご復活の主に縋りつくことによってではありません。ご復活のキリストが、マリアを「抱き起こし、抱き上る」ことによって。
実は、主がマリアと話されたユダヤの言葉では、「復活する」とは、死んでいた者、倒れていた者が、一人で立ち上がると言う単純な意味ではありません。元来は、「(倒れた者、死んでいる者を)抱き起こす」という意味の言葉です。主は復活された。それは、たんに倒れ死んでいた主キリストが生き返ったと言うのではありません。倒れ死んでいたのはマリアの方です。そのマリアが、あるいは倒れているわたしたち一人ひとりが、主に抱き起こされる。それが主の「復活」です。
わたしたちのために十字架につかれた主キリストは、主の十字架の下に、なお蹲(うずくま)ってしまうわたしたちのために復活してくださるのです。倒れているわたしたちを、死に打ち勝った主の力強い御腕で抱き起こしてくださるために。十字架の傷跡のある主の御腕で。
ご復活の主キリストが、皆さんとともに。 アーメン。