説教
復活の聖なる徹夜祭(B年 2021/4/3)
マルコ16:1−7
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
主キリストのご復活の日の朝早く、マグダラのマリアたち三人の女性たちは、十字架の後に主のおからだが収められた墓を訪ねました。
そのマリアたちに、神は、最初にみ使いによって声をかけてくださいました。それが今日の福音です。実は、福音書は、さらに、ご復活の主キリストご自身とマグダラのマリアとの感動的な出会いの物語を語り継いで行きます。
ところで、最初にみ使いによってマグダラのマリアたちに出会われた神は、彼女たちに「驚くことはない」、文字通りには「恐れるな」と仰せになっておられました。なぜでしょうか。なぜ、神は、この時、マリアたちに、「恐れるな」と仰せになられたのでしょうか。皆さんは、三人の女性たちとともに、神からの「恐れるな」とのおことばを、どのよう思いでお聞きになられたでしょうか。
この時、マリアたちは一体何を「恐れた」のでしょうか。主キリストが納められたはずの墓が、空だったことでしょうか。聖書はそのようには伝えていません。そうではなく、み使いによって、神が、彼女たちに会ってくださった、そのことを、マリアたちは「恐れた」のです。マリアたちは、神を「恐れた」のです。だからこそ、マリアたちに、神は「恐れるな」と仰ってくださったのです。
神に「恐れるな」と仰っていただく。わたしはこの主のみことばに、愕然といたしました。なぜなら、神のこのみことばの前に、わたしは自分自身を問い直さざるを得ないからです。果たして、わたしは、神に「恐れるな」と言っていただかなければならないほどに、真実に神を恐れて生きてきたかどうか。さらに、わたしは、今、この時、果たして、神を、そして神のみを、真に恐れて生きているといえるかどうか。
第二次大戦中、当時ドイツの大学で教えていたあるスイスの神学者が、ドイツの教会の人々に、クリスマスの説教をいたしました。その題は『恐れるな』。説教の題は、主キリストの誕生を予告する天使ガブリエルが、主の母となられるマリアさまに告げた「恐れるな」ということばから取られました。これはドイツのナチの軍靴の響きが、すでにドイツ内外に不気味な影を落とし始めている中で、恐怖と不安に心が動揺している人々に向けて語られた説教でした。
彼は教会に集った人々に、わたしたちは、今、一体何を恐れているのか、と問い掛けます。ナチの軍隊か。もちろん、そうであるに違いない。しかし、と彼はさらに問いかけます。わたしたちは、み使いに「恐れるな」と言っていただかなければならないほどに、果たして、神を、神のみを恐れているだろうか、と。彼は、この説教を次の言葉で結んでいます。「もし、私たちが、真の神を、神のみを恐れることがないならば、その結果、わたしたちは、真の神以外の一切のものを、恐れることになる。」
これは他人ごとでありません。先の東日本大震災のような大災害のみならず、昨年からの新型コロナ感染症、さらには日常の些細なことでも、一端事が起これば、自分の身の危険や、さらには自らの死を恐れて心が動転するだけのわたしです。
もし、神から「恐れるな」とのみことばを聞かせていただくことがなければ、「神を恐れる」ことに、思いが及ばなかったようなわたしでした。その結果、「神を恐れる」という人として最も大切なことを忘れ、神を信じると言いながらも、取りとめのない不安と神以外のあらゆるものに対する恐れの中で、わたしは一生を空しく過ごしてしまったかも知れません。
こころから愛していた主キリストの十字架の死。頼りにし切っていたに違いない主の、まったく思いがけない死。主のご復活の朝早く、神から「恐れるな」とのみことばを聞かせていただくその時まで、マグダラのマリアたちの心を占めていたのも、主を失った彼女たちのこれからの生活への不安、さらには、主を失った彼女たちを取り巻くすべてのものに対する恐れでは無かったでしょうか。言い換えれば、真の神以外のすべてのものへの恐れでは無かったでしょうか。
しかし、もうその必要はない。ご復活の日の朝、神はマリアに語られたのです。「恐れるな。」そして時を措かず、ご復活の主キリストご自身が彼女にお会いくださる。
神を、神のみを「恐れる」者から、神は、神以外の一切のものへの恐れを取り除いてくださいます。実はこの神こそ、主キリストにおいてすでに親しく私たちにお会いくださったおられた神。十字架に至るまで、わたしたちを愛し抜いてくださった方です。この方が、今、ふたたびわたしたちにお会いくださる。それが主のご復活です。
「マリア、恐れることはない」。マリアだけではありません。これは、皆さんお一人おひとりへの、ご復活の主キリストご自身からの愛と慰めのおことばです。
「恐れることはない」。ご復活の主が、皆さんとともに。 アーメン。