カトリック上福岡教会

説教

復活節第4主日(B年 2021/4/25)

ヨハネ10:11−18

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」

これは、主キリストのおことばです。ここで、「良い羊飼い」とは、誰のために「良い」のでしょうか。もちろん、わたしたち「羊のために」です。わたしたちを生かすために、ご自身を犠牲になさるほどに、わたしたちのために「良い」ということです。そうであれば、「良い羊飼い」とは主だけです。ただ主だけが、このみことばの通りに、「良い羊飼い」として、事実、わたしたち「羊のために命を捨て」てくださったからです。

ここで思い出すことがあります。主キリストは、宣教のご生涯の始めに、「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタイ9:35)と、マタイによる福音は伝えていました。ただし、その時、行き廻られた町や村で、主キリストがご覧になったわたしたちの現実とは、どのようなものだったのでしょうか。

マタイによる福音は続けていました。「主は、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイ9:35、36)フランシスコ会訳『聖書』では、ここを次のように訳しています。「イエスは、群衆が牧者のいない羊の群れのように疲れ果て、倒れているのを見て、憐れに思われた。」

先に、主キリストの話されたユダヤの言葉でも、また福音が伝えられた新約のギリシャ語でも、「復活する」とは、元来、倒れている人を抱き起こす、さらには、傷ついた人を介抱する、と言う時に日常的に使われる言葉でもあると申しました。

そうであれば、「牧者のいない羊の群れ」こそ、主キリストのみ前に「疲れ果て、倒れて」いたわたしたちの姿、ご復活の主キリストに見いだされ、抱き起こされ介抱されることをひたすらに待っているわたしたち自身の現実の姿ではないでしょうか。

「わたしは良い羊飼いである。」主キリストは、今日の福音で、このおことばを二度繰り返された後、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と、仰せになっておられました。この時、主が「羊であるわたしたちを知って」おり、羊も「神である羊飼いを知る」とは、どういうことなのでしょうか。主キリストは、仰せです。

「それは父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」

御父なる神と御子キリストが互いを知る。それは、御父と御子が一つであるということです。そうであれば、御父が御子を知っておられるように、羊飼いである主キリストが、わたしたち羊を知ってくださる。それは、父なる神と御子が一つであるように、主キリストは、ご自身とわたしたちとを一つにしてくださる、ということです。

驚くべきことに、「牧者のいない羊」であるようなわたしたちを、主キリストはご自身と一つとしてくださる。ご自身そのものとさえしてくださる。自らの罪ゆえに主のみ許から迷い出たわたしたちの負うべき十字架、つまりわたしたちの悩み、苦しみ、悲しみ、罪の一切を、主ご自身がご自分に引き受けてくださる、と言われるのです。

「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」ここに神の愛があります。御子にわたしたちを固く結びつけご自身と一つにしてくださる父なる神の愛。

しかしこの父なる神の愛は、わたしたちの罪の赦しのために御子キリストを十字架につけ、さらに御子を復活させてわたしたちに命を与える聖霊をくださることにより成就する神の愛です。主は仰せでした。「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。」

かつては「牧者のいない羊」のようであったわたしたち。それは、自らの罪ゆえに牧者を失っていたわたしたちの現実の姿、唯一人の牧者なる神から罪によって離れてしまっていたわたしたちの姿でした。そのような愚かで惨めなわたしたちと、敢えてご自身を一つにしてくださるまで、わたしたちを愛し抜いてくださる主キリスト。

御子キリストによる、この神の愛の内に、わたしたちの罪を贖う主キリストの十字架が堅く立てられています。この神の愛の内に、罪贖われたわたしたちに永遠の命を与え、さらにそのわたしたちを神への捧げものとしてくださるために、聖霊を注いでわたしたちを聖くしてくださるご復活の主ご自身がお立ちになっておられます。

羊飼いなる主キリストが、羊であるわたしたちを知り、ご自身と一つに結び合わせてくださいます。主は、十字架とご復活によるご自身のご奉献に、わたしたち自身の奉献を一つに結び合わせてくださいます。ごミサこそ、まさにその時です。

「わたしは良い羊飼いである」と主キリストは仰せです。

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

ゆりのイラスト

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