カトリック上福岡教会

説教

聖金曜日・主の受難(B年 2021/4/2)

ヨハネ18:1−19:42

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

昨晩のごミサで、わたしたちは主キリストと主の十二弟子たちとの「過越の食卓」・「最後の晩餐」を記念いたしました。今日わたしたちは、最後の晩餐の後、十字架におつきになられた主キリストの下に集まり、「信仰の神秘」を記念します。しかしなぜ、信仰は神秘、すなわち秘跡なのか。信仰とはわたしたちの心の問題ではないのか。

ところで、「最後の晩餐」の時のことです。主キリストはペトロに、「わたしの行く所に、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる」と仰せになられました。ペテロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためには命を捨てます」と、主にお応えしました。その時のペトロの気持ちに偽りはなかったと思います。しかし、ペテロに主キリストは、「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と仰せになりました。

わたしたちは神を信じるという時、何を思うでしょうか。聖書で「神を信じる」とは、実に重い言葉です。それは、神に自分自身を委ね切ってしまうこと、さらには神に自分自身を一切明け渡してしまうこと、捧げつくしてしまうことです。つまり、「信仰」とは、わたしたち自身を神に「奉献」することです。つまり、聖書において「神を信じる」とは、近代のわたしたちが考えるように、神の存在を知的に確信するというようなわたしたちの心の問題ではなく、わたしたち自身を神に捧げること、です。

ペテロは主に、「主よ、あなたのために命を捨てます」と申し上げました。それが、「主よ、あなたを信じます」ということなのです。事実、ペテロは後に主キリストのために命を捨てます。ペテロの主への「信仰」は、彼の心の内の確信というよりも、むしろ彼の殉教によって成就します。ただし、主のご復活の後、聖霊の導きによって。

しかし、「主の受難日」の今日、わたしたちが目撃するペテロの姿は果たしてどうでしょうか。今日に限って言えば、ペテロは、自分を主キリストに委ね切って、主とともに十字架につくことはできませんでした。そのように主を信じきることはできませんでした。そこには命はありません。主を離れて、命はないからです。主キリストが、主とともに十字架に付けられた一人の人に「神の国」を約束されたように、主とともに十字架につけば、じつに、そこにいのちがある、神の国があるのです。

それでは受難日の今日、わたしたちが目撃した事実とは、いかなるものであったのでしょうか。驚くべき事に、それは、じつにペテロではなく、主キリストの方が、ペテロのためにご自身のいのちを捨てられたという事実、ではなかったでしょうか。

主キリストを信じきれず、したがって主に自分の命を差し出し切れない今日のペテロ。そのペトロに対して、主キリストの方がペテロにご自身のいのちを捧げ切ってくださったのです。そのようにして、主キリストの方が、ペテロを「信じ切って」くださったのです。信仰とは、奉献であると申しました。しかし、わたしたちが自らを主に捧げることに躊躇(とまど)う中で、先に主キリストの方がわたしたちにご自身を捧げきってくださったのです。じつに、十字架の死に至るまで。

「主の受難日」の今日、これが、福音が伝える主キリストとペトロの間に起こった事実です。「信仰の神秘」。福音において明らかにされた「信仰」とは「神秘(秘跡)」・神の自己奉献のみわざとして神がわたしたちに成就してくださった神の事実です。わたしたちが今日、主の十字架の下で記念するのは、この驚くべき恵みの事実です。

「信仰の神秘」、神秘は秘跡。それは、わたしたちの思いを超えた、神のみ業です。しかし、難しい理屈ではありません。今日のペトロのように、主キリストを信じ切れずに疑うわたしたち。主のために、命を差し出しきれないわたしたち。主のために死に切れないわたしたち。そのわたしたちのために、主の方が十字架の上でご自身の御血の最後の一滴に至るまで注ぎ尽くしてくださった。そのようにしてまで主はわたしたちにご自身を捧げつくしてくださった。十字架の死に至るまで。それが神秘です。確かに、驚くべきことです。しかし、これは神が事実なさってくださったことです。また、秘跡として、ごミサの度ごとに神がわたしたちになさってくださる事実です。

「信仰の神秘」「秘跡である信仰」とは、わたしたちが頭で神の存在を確信すると言う事でも、わたしたちが心の内に主の十字架を偲ぶというようなことでもありません。わたしたちの信仰とは、主キリストが十字架において、わたしたちにご自身を捧げてくださることにより、主がわたしたちにお与えくださった恵みの事実です。

「信仰とは神とわたしたちの相互の奉献」わたしたちは、主キリストに感謝をもってわたしたちを捧げさせていただく以外にはありません。それがわたしたちの「信仰」、神へのわたしたち自身の「奉献」です。主キリストの方がわたしたちに先立ち、わたしたちにご自身をご自身の御からだと御血を捧げ尽くしてくださったからです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ゆりのイラスト

「説教」一覧へ

トップヘ戻る