説教
復活節第3主日(B年 2021/4/18)
ルカ24:35−48
父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。
「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」(ルカ24:32)
「そのとき、エルサレムに戻った二人の弟子は、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を(ペトロたち十一人の弟子たちに)話した」(ルカ24:35)と、今日のルカによる福音は、語り始めていました。
ところで、遡って、主キリストの十字架の死から三日目のことでした(ルカ24:13−34)。この二人の弟子たちは、エルサレムを離れてエマオと言う村に向かっていました。彼らは、主のことを道々話していました。すでにその日の朝早く、十字架の主のおからだが納められた墓を訪ねた婦人たちから、「主は生きておられる」と聞かされていました。しかし、二人はそのことを信じることができませんでした。
エルサレムから離れて行くこの二人に、いつの間にかご復活の主キリストが寄り添い、ともに歩き始めてくださっていました。しかし彼らは、この方が主ご自身であることに気づきませんでした。「二人の目は遮られていた」と、聖書は伝えています。
何が、ご復活の主キリストに対して、彼らの目を遮っていたのでしょうか。それは、彼らの人間的でこの世的な主への期待、したがって主の十字架の死による失望と落胆。さらには、その後の主のご復活を疑う疑いではなかったでしょうか。
実は、そのような二人には最初から、主キリストの真実が目に見えていなかったのかも知れません。それは、彼らが主に呼ばれたその時から、主の十字架の死、さらには主のご復活の後の今この時に至るまで、神が一時も休むことなく、主キリストにおいて彼らになさってくださっておられた恵みの事実です。
しかし、この神の恵みの事実に、二人の目が開かれる時が来ます。
二人、否、今や三人がともに歩き続けて夕方になりました。二人は、もう一人の方を夕べの食卓に招きました。その方は彼らとともに家に入られ、一緒に食卓に着かれました。そして、その方が二人に「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」まさにその時、「二人の目が開け、イエスだと分かった」(24:30、31)。
「主は生きておられる。」
十字架を控えての最後の晩餐の時と同じ主キリストが、しかし、まぎれもなく、今やご復活の主キリストが、その食卓で、二人のためにパンを裂いておられる、彼らのために、ご自分の御からだを裂き、ご自分の御血を注いでくださっておられる。
実は、ご復活の主キリストに対して「目が遮られていた」のは、この二人の弟子だけではありませんでした。エルサレムに留まっていたペトロたち他の弟子たちも、同様でした。彼らは、この二人から主のご復活の証言を聞かされていたにもかかわらず、ご復活の主キリストがペトロたちにご自身を現わされた時、主から「なぜうろたえているのか。どうして心に疑いを起すのか」と言われなければなりませでした。
しかし、ご復活の主キリストは、ちょうど、かつてエルサレムを離れてエマオに向かった二人になさったように、ペトロたち十一人の弟子たちにも、主ご自身について、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活するとの聖書の言葉を悟らせるために、彼らの心の目を開いて」くださいました。その上で、主は、「あなたがたはこれらのことの証人となる」と、ペトロたちに約束されました。
後にペトロたちは確かに、主キリストのお約束通り、主の十字架とご復活の証人とされました。しかしそれは今日の福音のように、ご復活の主ご自身が、彼らの心から疑いが無くなるまで、くりかえし彼らを訪ねてくださったことによって、でした。
わたしたちも、同じではないでしょうか。わたしたちの「遮られた心の目」が、ご復活の主キリストにはっきりと開かれるその時まで、主はうむことなく、休むことなくわたしたちを訪ね、わたしたちのためにご自身について聖書を悟らせ、さらにごミサで、主とのこの食卓でご自身の御からだを裂き、御血を注ぎ出してくださいます。
「道で話しておられるとき、また聖書を説明して下さったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」
わたしたちも同様です。ご復活の主キリストは、すでにわたしたちとともに歩いてくださっておられた。この事実に気づかせていただく。それがごミサです。
ご復活の主が、皆さんとともに。 父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。