カトリック上福岡教会

説教

四旬節第5主日(B年 2021/3/21)

ヨハネ12:20−33

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

ご一緒に福音にお聞きしながら、主キリストに伴われて四旬節の歩みを進めて参りました。次の主日は、いよいよ「枝の主日」。主の過越を、わたしたちもご一緒に祝わせていただく聖週間を迎えます。一年のカトリック教会の暦で、最も大切な時です。

さて、「枝の主日」に、主キリストはエルサレムに入城されました。その後の聖木曜日の晩の弟子たちとの「最後の晩餐」までのある時のこと、弟子たちとともにエルサレムの神殿を訪れた主が、そこで人々に語られた、神殿での最後となった主の説教を、ヨハネによる福音は極めて丁寧に伝えてくれています。

今日の福音は、主キリストのその時の説教の冒頭の部分です。主は、この説教を、「人の子が栄光を受ける時が来た」という、忘れがたいおことばによって語り始められました。

「栄光」。今日の福音の中で、このことばは三度繰り返されます。最初は、主キリストがご自身を指して、「人の子が栄光を受ける時が来た。」次には、「父よ、御名の栄光を現わしてください」との父なる神への祈りの中で。最後は、天の父なる神からの声として。「わたしは既に栄光を現わした。再び栄光を現わそう。」

「栄光」。それは、父なる神が、御子キリストを通して現わされる栄光であり、御子キリストが、父なる神からお受けになる栄光です。ただしそれは、「一粒の麦が地に落ちて死ねば」と、明らかに主キリストご自身の死に結び付けられています。その時、「栄光」とは、一体いかなることなのでしょうか。

「栄光」。それは、「聖なる神の輝き」です。ただし、主キリストが話しておられたユダヤの言葉では、「栄光」と訳される言葉は、元来は「きわめて重いもの、ないし最も重いもの」を指す言葉でした。

その時、主キリストにとって、「最も重いもの」とは一体何でしょうか。十字架の死を目前に控えておられたこの時、主キリストにとって、父なる神からお受けになるべき「栄光」、つまり「最も重いもの」とは、まず何よりも、主ご自身の負われる十字架のことではなかったでしょうか。また、同時にそのことは、父なる神が、わたしたちにとって、実は、いかなる方であるのかをも明らかにしてくれていると思います。

御子キリストにおいて、ご自身の「栄光」を現わそうとされる父なる神。この方は、決してわたしたちから遠く離れて、わたしたちをその罪に従って裁かれるような超越的な方ではありません。むしろわたしたちの隣りで、本来わたしたちの負うべき重い十字架を負って、ともに歩んでくださる憐れみの神であられるということです。

これだけでも驚くべきことです。しかも、それだけではありません。主キリストは、今日の福音、主の神殿での最後の説教を、次のように結んでおられます。

「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

父なる神が、御子キリストによって現わされる「栄光」。それは、父なる神のみ旨に従って、わたしたちのために主が負い切ってくださる十字架の「重さ」のことだけではありません。地上に堅く立てられた主の十字架を通して、父なる神が御子とともに天に引き上げてくださる、わたしたち一人ひとりの命の「重さ」でもあるのです。

「神の栄光」。確かにそれは、十字架の死を経て、ご復活の栄光の内に天へと過ぎ越して行かれる、主イエズス・キリストの過越の成就です。しかし同時に、それは、主キリストとともに十字架に死に、さらに主キリストの聖霊の注ぎによって聖(きよ)められ、主の復活のいのちに重ね合わされて天に上げられて行く、わたしたち一人ひとりのいのちの過越の成就でもあるのです。

神の「栄光」。父なる神が、御子キリストによって現わされる栄光。その重さ。それは、わたしたちのための主の十字架と復活、そしてご昇天。主の過越の勝利の重さです。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

「地に落ちて死んでくださった一粒の麦」、すなわち主キリスト。実は、わたしたち一人ひとりこそ、その主キリストの重い「栄光」によって結ばれた尊い実りです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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