カトリック上福岡教会

説教

四旬節第4主日(B年 2021/3/14)

ヨハネ3:14−21

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音は、主キリストと二コデモとの長い対話の後半の部分です。二コデモは、当時のユダヤ教律法学者集団ファリサイ派の一人であったと言われています。しかし、彼は、他の律法学者とは違いました。彼は、主キリストが、父なる神の御許から遣わされた方であること、主において聖霊なる神が活きて働いておられる事実を、もはや疑い得ない事実として確信するに至りました。その結果、止むに已まれぬ思いからでしょう、ある夜、主キリストのもとを独り訪ねて来たと、福音は伝えています。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである。」

福音書の中でも、よく知られた、また多くの人々に愛されて来た主キリストのこのおことばは、実は、主が、二コデモとの会話の結びに仰せになられたおことばです。

ところで、主キリストと二コデモの対話で、注意したいことがあります。主は彼に、「人は、新たに生まれなければならない」との、同じおことばを繰り返しておられることです。ただし、それが聖霊によってであることは、「新たに生まれる」ということを、主ご自身が、「霊から生まれる」と言い換えておられることから明らかです。

「人は、聖霊によって新たに生まれなければならない。」なぜでしょうか。それは、「神の国に入る」ためであると、主キリストは明言しておられます。「神の国に入る。」すなわち、「神の国の主」キリストとともに、永遠のいのちに生まれるためです。

二コデモの属していたファリサイ派の人々は、律法学者、つまり神の律法の教師と言われるほどに、聖書に通暁していました。彼らは、聖書に伝えられる神のことばを法律のように解釈・適用して、他人を裁くことについては習熟していた人々でした。

しかし彼らが理解していないこと、否、彼らが未だ体験していないことがありました。それは、神のみことばにおいて神ご自身、聖霊が働かれると言う事実です。

神のみことばにおいて、聖霊なる神ご自身が働かれる。むしろ、神のみことばは、たんに神の教えではなく、実に聖霊において働かれる神ご自身である、と言う真理です。それこそが、人なられた神のみことば主イエズス・キリストに他なりません。

二コデモも、かつては律法学者として、聖書の神のことばは、律法ないし法律として人に与えられ、彼ら律法学者たちによって解釈され、人々の生活を正し、罪を裁くために適用されるべきものと考えていました。しかし、本当にそうなのか。

今や二コデモは、神のみことば・主キリストのみ前に、以前の彼の理解とはまったく別の真実をはっきりと知らされたのです。それは、聖霊において働く神のみことばとは、「主イエズス・キリスト」として、世に与えられた神ご自身であられるという真実です。彼はその晩、この神のみことば・主キリストご自身に、お会いしたのです。

これが、福音の伝える二コデモと「神の国の主」キリストとの出会いです。そしてそれは、二コデモにとって、主キリストによって「神の国に入」らせていただくという体験です。そして、それこそ彼にとって、主の仰せになられた「聖霊によって新たに生まれる」と言う、彼自身もはや疑い得ない体験・身の事実であったはずです。

聖霊によって二コデモをまったく新しく「上から」産んでくださった神のみことば・主キリスト。ただ、その方は、いかなる方なのか。主キリストご自身が、彼に仰せでした。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」「神が御子(おんこ)を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

神が罪なるわたしたちを罪に従って裁くのではなく、罪を赦して救ってくださるために、御子キリストはわたしたちの罪を一身に負い、十字架上でわたしたちに代って裁きを受けてくださいました。しかも主は、わたしたちの罪の贖いとして十字架に「上げられた」ばかりではありません。主は、わたしたちにご自身の活けるいのち「聖霊」をくださるために復活してくださいました。聖霊によってわたしたちを「新たに神の国に生まれ」させてくださるために。

二コデモにお会いくださった同じ主キリストが、ごミサでわたしたちにお会いくださいます。それは、二コデモ同様、わたしたちも「神の国に入り、聖霊によって新たに生まれ、主キリストとともなる永遠のいのちに生きる者としてくださる」ためです。

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

ゆりのイラスト

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