カトリック上福岡教会

説教

年間第5主日(B年 2021/2/7)

マルコ1:29−39

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

マルコによる福音にお聞きしつつ、主キリストの宣教の歩みをともに辿らせていただいています。今主日の福音も先週に続いて、主が汚れた霊に取りつかれた人々から、「みことばと聖霊によって」悪霊を追い出されたことを伝えています。

ところで先の二月二日、「主の奉献」の祝日に、わたしたちは、ご降誕から四十日の後、幼子キリストが、マリアさまとヨセフさまによってエルサレムの神殿で、父なる神に捧げられたことを記念し、祝いました。

古い教会の暦では「主の奉献」の祝日を以て降誕節の終わりとしていました。英国の家庭では、現在もこの祝日後にクリスマス・ツリーや飾りつけを片づけ、また市役所のトラックがクリスマス・ツリーのもみの木を家々に回収に来ます。

「主の奉献」の祝日の福音は、幼子キリストの奉献のために神殿を訪ねたマリアさまたちが老シメオンに出会ったこと、またこのシメオンは、「正しい人で信心深く、聖霊が彼の上にあり、主が遣わすメシアを見るまでは決して死なないとの、聖霊のお告げを受けていた」(ルカ2:25、26)ことを伝えていました。

目に見えぬ聖霊なる神の導きと約束に一切を委ねて、生涯を祈りの内に誠実に忍耐と従順をもって救い主キリストを待ち望んだシメオン。その彼の目に、神は約束通り神ご自身を見せてくださった。それが主キリストです。

「わたしはこの目であなたの救いを見た。」(ルカ2:30) シメオンが許されて、マリアさまの御手から幼子キリストを自らの腕に抱き、神を賛美した時の言葉です。ところで、その日、この幼子キリストが神に奉献されたのは、「初子の奉献」を定めた「主の律法に従って」(ルカ2:22−24)であった、と福音は伝えていました。

「主の律法」。実は、主なる神は、ご自身の民を奴隷の家エジプトから導き出される当にその前夜に、「初めて生まれる男子はみな、主に聖別された者である」と、「初子の奉献」をお命じになりました。主なる神が引き続いて成就される神とご自身の民の過越、すなわち「主が力強い御手をもって神の民をエジプトの地から導き出された」ことが、永遠に記念されるためにです(出エジプト13:1、2)。しかしなぜ、主なる神は、わたしたち神の民に、「初子の奉献」をもって「神と神の民の過越」の記念をさせようとなさるのでしょうか。

それは、神と神の民の過越を可能とした奇跡の背後には、ご自身のいのち以上に尊い初子の奉献という犠牲によってしか記念され得ない神ご自身の犠牲があった事を、わたしたちに記憶させるためではないでしょうか。後の、神の初子にして独り子キリストの十字架上の奉献が、既にここに明確に示唆されているように思います。

そうであれば、初子の奉献である幼子キリストの奉献によって、神がわたしたちに成就してくださることは明らかです。主キリストにおけるわたしたちの出エジプト、つまりわたしたち一人ひとりが主のご受難と十字架の死を通してご復活の栄光に、すなわち神のみ国に、主キリストによって、主とともに導き入れられることです。

神の救い、主キリスト。神が真にわたしたちにお望みになられる救い。それは実は、わたしたち一人ひとりが、主のご受難と死を通して復活の栄光に過ぎ越して行かれた、主キリストご自身の奉献に固く結びあわされることです。

もう一度、今日の福音を見てみましょう。主キリストが、「みことばと聖霊」によって、弟子のシモン・ペトロの姑を始めとして大勢の病む人々を癒され、汚れた霊に取りつかれた多くの人々から悪霊を追い出されたことを伝えていました。

主キリストによる救いのみ業。「みことばと聖霊」によって主が成就してくださる神の恵みは、わたしたちの病の癒しや汚れた霊からの解放に留まりません。なぜなら、主キリストは、聖霊によって、神のみことばとその恵みの一切を、わたしたちの内に成就してくださることがおできになるからです。

神のみことばが聖霊によってわたしたちに成就する。それこそ神が真にわたしたちに望んでおられる救い。それは病の癒しや悪霊からの解放に留まらず、わたしたちを聖霊によって主キリストの奉献、つまり主の十字架の死とご復活の栄光に結び合わせてくださること聖霊による主なる神キリストと私たちの過越の成就です。

御子キリストによって、父なる神がわたしたちにお与えくださる救い。それは聖霊によってわたしたちの内に実を結ぶ神のみことばの一切です。それは、わたしたちの地上の願いや祈りさえ遥かに超えて、神の国の恵みと豊かさに溢れています。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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