カトリック上福岡教会

説教

待降節第二主日(C年 2021/12/5)

ルカ3:1−6

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

待降節第2主日を迎えました。待降節の今、わたしたちは主キリストの使徒ペトロの言葉のように「神の約束に従って、救い主キリストを待ち望んで」います。(2ペトロ3:13)

そのわたしたちに、旧約の「預言者イザヤにお語りになられたとおり」「神のことばを洗礼者ヨハネに降して」「主キリストの日に備え」させてくださる神は、今日のルカによる福音で、次のようにお命じになっておられます。(以下、イザヤ40:1−11参照)

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」

しかしそれは具体的にはどうすることなのでしょう。預言者イザヤは続けます。

「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。
曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、」

神にお会いさせていただくために、「低い谷があったら埋めなさい。高い山や丘は低くしなさい。曲がった道は真っ直ぐに、でこぼこの道は平らにしなさい」、と。意外に思われた方もおられると思います。深い谷を渡り、高い山を登りつめてこそ、人は、始めて神にお会いできるのではないか、と。イザヤは、告げます。

(こうして)人はみな、神の救いを仰ぎ見る。」

強い人だけが、ではないのです。「人みなともになのです。谷を埋め、山を削れば、弱さを覚えておられる人々を含めてわたしたちすべてが、皆ともに、来たりたもう神にお会いさせていただける。神は、わたしたちにそれを望んでおられるのです。福音に引用された旧約イザヤ書の元の言葉にも、「こうして、主の栄光が現れるのを、肉なる者(わたしたちすべて)はともに見る」とあります。(イザヤ40:3−5)

わたしたちのために、待降節に神から遣わされたヨハネは、その生涯を、「わたしたちすべてがみなともに」神をお迎えできるように、との神のみ旨に忠実に生き抜いた人でした。主の約束への絶対の信頼、同時に、「わたしはその方の履物の紐を解く値打ちもない」(ルカ3:16)との、主なる神へのまったき謙遜と深い懺悔の内に。

洗礼者ヨハネの、主キリストに対するこの姿勢は、主をお迎えした後も、彼の最期の時までまったく変わることはありませんでした。後に殉教の死を目前にして、彼は主への変わらぬ信仰を、次のように告白しています。「わたしは喜びで満たされている。キリストは栄え、わたしは衰えなければならない。」(ヨハネ3:29、30)

この待降節、わたしたちもヨハネとともに、彼にならって来たりたもう主を、みなでともにお迎えできるように、「主の日にともに備える」者でありたいと切に願います。

ところで、旧約の預言者イザヤは、今日の福音に引用されたことばに続けて、来たりたもう救い主キリストは、どのようにしてわたしたちにお会いくだるのか、主の栄光はいかに現わされるのかについて、明快に語り明かしています。

「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。」(イザヤ40:9、10)

来たりたもう主キリストは、父のように強くなければなりません。力の無いわたしたちを、その力強いみ腕で抱き起こしてくださるために。同時に、主は母のようにやさしくなければなりません。そのやわらかいみ手でわたしたちを抱きしめてくださるために。イザヤは、語り継いでいました。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」(イザヤ40:11)

後に、ここに預言された羊飼いなる主キリストご自身、「良い羊飼いは、羊のためにいのちを捨てる」と、ご自身の羊であるわたしたちに現わされる「神の栄光」の究極の姿を、ご自身の十字架として明らかにされます。(ヨハネ10:11)

今日の福音に引用されているのは、預言者イザヤの書第40章です。その章の冒頭、神は、イザヤを通して、わたしたちに次のように語り始めておられました。「慰めよ、わたしの民を慰めよ。エルサレムの心に語りかけよ。」(イザヤ40:1、2)

このみことばの内に、御子キリストを「良き羊飼い」としてわたしたちに遣わされる父なる神の慈しみに満ちた御こころが鮮やかではないでしょうか。その「目に見えない御父の、目に見えるみ顔は、主キリスト」、「イエス・キリストは、父のいつくしみのみ顔です」と、教皇フランシスコが、2015年の「いつくしみの特別聖年」の「大勅書」および「祈り」に記しておられたことを、改めて思い起こしたいと思います。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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