説教
聖家族(C年 2021/12/26)
ルカ2:41−52
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」
教会は、降誕日直後の主日を「聖家族」の祭日として祝います。クリスマスは、決して主キリスト個人の出来事ではありません。神が、あらかじめマリアさまとヨセフさまを聖霊の恵みによって整え、主キリストをお迎えする家庭を備えた上で、主を聖母さまから誕生させておられます。その後、主はナザレの「聖家族」の内に成長し、マリアさまとヨセフさまと喜びと労苦をともにして行かれます。
今日の福音は、12歳の主キリストがマリアさまとヨセフさまとともに過越祭にエルサレムに上った際のことを伝えていました。冒頭の引用は、そのルカによる福音の結びです。「母はこれらのことを」以下の文章は、とくにマリアさまが、主の成長を温かく見守っておられるご様子を語り尽くして余りあると思います。
福音は、ヨハネから洗礼を受けられた後の主キリストの宣教のご生涯に比べて、それ以前のナザレでの主のマリアさまとヨセフさまとの生活について多くを語りません。その意味で、先に引用した、主が「ナザレで両親に仕えてお暮しになった」との福音のことばは貴重です。むしろ、この短い文章が、ナザレの「聖家族」での約30年の主キリストの生活のすべてを語っているというべきかもしれません。
これは一見何気ない文章のようです。しかし、これは驚くべきことではないでしょうか。主キリストは「聖霊」による神の独り子だからです。神の神殿があったエルサレムから遠く離れたガリラヤ地方の、しかも小さなナザレの村で、貧しい大工のヨセフさまを父とし、また母マリアさまとともに、30歳になられるまで、ヨセフさまのもとでともに大工仕事に精を出し、母を助け、そのようにして、ご両親に仕えてお暮しになられた。神の御子が! それが主キリストです。
主キリストご自身は、もちろん、ご自分が誰であられるかを知っておられました。そのことは、今日の福音の主のエルサレム神殿でのエピソードが伝える通りです。ヨセフさまとマリアさまは、12歳になられた主キリストを伴って、例年のように他の村人たちとともにエルサレム神殿で過越祭を祝いました。しかし、エルサレムからの帰り道、一行の中に主のお姿が見当たりません。
慌てたマリアさまとヨセフさまは、主キリストを捜しながらエルサレムまで引き返し、神殿に留まっている主を見つけます。主を見つけた安堵の余り、主のこのような行動に、つい愚痴をこぼした両親に対して、主は次のようにお答えになりました。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
しかし、ルカによる福音は、主キリストのこのおことばに当惑したマリアさまとヨセフさまを主ご自身がいたわるように、「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった」と語り続けた上で、次のマリアさまのご様子をも大切に伝えていました。「母は、これらのことをすべて心に納めていた。」
このマリアさまの眼差しの中で、またヨセフさまのご保護のもとで、「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」と、今日の福音は結んでいます。
第2バチカン公会議を開始されたヨハネ23世のご帰天後、公会議を成功裏にまっとうされたのはパウロ6世教皇です。この教皇さまは、ナザレの「聖家族」を「福音の学び舎」・「福音の学校」と呼ばれました。ナザレの「聖家族」の貧しくとも、祈りと愛に満たされた日常から、生きた「福音」を学ばせていただくように、と。
そこには、「福音」そのものであられる神の御子・主なるキリストが、清貧の内に、ヨセフさまとマリアさまに謙遜の限りを尽くし、従順に、また貞潔に生きておられます。また、今日の福音のエルサレム神殿でのエピソードのように、主に対して理解がおよばないことがあっても、「母は、これらのことをすべて心に納めていた」。ここには、主のみことばとみ業の「すべてを心に納め」て、人の知恵に頼らず謙遜と忍耐をもって、神ご自身からの語りかけを待っている主の母がいます。
「聖霊」において働かれる創造主キリスト、すなわち「福音」には、世界を造り変えることができる大いなる力があります。「聖霊」は、「福音なる主キリスト」を迎えた家庭の日常の生活の中に働き、わたしたちの家庭を「ナザレの聖家族」へと造り変えることがおできになります。そこには、主とともに「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」キリストの似姿へと造り変えられて行くわたしたちがいます。
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。