説教
待降節第三主日(C年 2021/12/12)
ルカ3:10−18
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
待降節も第三週を迎えました。アドベント・リースに明るいバラ色のろうそくが点されました。教会は、伝統的にこの主日を、今日の入祭唱にある使徒パウロの『フィリピの信徒への手紙』の言葉、「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」から、「喜びの主日」と呼んできました。(フィリピ4:4−5)
主キリストが来られるのを待つ時の重さの中で、パウロは、わたしたちの疑いや迷いを打ち破るように力強く告げます。「喜べ」、「主が近づいておられる」。
復活の使徒パウロのこの言葉は、主なる神が預言者ゼファニヤを通して、旧約の時代に神を待ち望む者、神が来られる「その日」を待つ者、に告げられた次のことばに基づいています。「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び踊れ」、「その日」が近づいている。預言者は続けて、「その日、人々はエルサレムに向かって言う、云々。」(ゼファニヤ4:14−17)
しかし、預言者が「その日」と語り始める前に、主は預言者を通して、すでに次のように仰せでした。「イスラエルの王なる主はお前の中におられる。」(ゼファニヤ4:15)
「主は近づいて来られる。」しかし、すでに、その「主はお前の中におられる。」
使徒パウロも同じことを語っていました。「主にあっていつも喜べ。主は近づいておられる。」すなわち、「近づいて来られる主」を、すでに「主にあって喜べ」と。
待降節の間、わたしたちは主キリストの来られるのを待ち望んでいます。しかしその方は、わたしたちが始めて聞いた方ではありません。預言者を通して、歴史の始めからみことばを語って来られた神ご自身です。主キリストの使徒ヨハネはその方を、「初めからあった方」すなわち「いのちのことば」と証ししています。(1ヨハネ1:1−2)
すでに「初めからあった方」が来られる。それは、いかなることなのでしょうか。ヨハネは、彼の手紙に、そのことを次のように語っています。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、いのちのことばについて。このいのちは現れました。」
待降節の後、クリスマスで祝う神の秘義とは、「初めからあったいのちのことばが、わたしたちに現れてくださった」ことに他なりません。それは、見えないがゆえに神を疑うわたしたちのために、神が、「いのちのことば」なる神ご自身にわたしたちが「よく見て、手で触れ」ることができるようにしてくださったということです。
さらに使徒ヨハネは、彼の福音で次のようにも伝えています。「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」ヨハネは、続けます。「いまだかって、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:14−18)
「見えない神が、見える神となられた」。見えない神、すなわち、預言者たちを通してみことばを語り続けられた神ご自身が、聖母マリアさまを通して、主キリストにおいて見える神となられた。その時、見えなかった神と、見えるようになられた神は一つにして同じ神です。これが、クリスマスの秘義です。
「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる。」
最早わたしたちは、見えないがゆえに神を疑い、暗闇に迷い続ける必要はありません。待降節の今、「主キリストを迎える大いなる期待」の内に、すでに「主にあっての喜びの時」が始まっています。わたしたちがクリスマスにお迎えさせていただく主は、預言者によってみことばを語られていた主なる神ご自身です。見えなかった神が、主キリストによって見える神となられた時、それは、わたしたちが預言者を通してお聞きした、主のみことばの一切が成就する時でもあります。
否、それ以上です。今日の福音で、主キリストの先駆者洗礼者ヨハネは、わたしたちに告げています。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」
見えるようになられた神は、かつて語られたみことばを成就されるだけではなく、わたしたちに「聖霊と火」を注いでくださる。主キリストご自身のいのちである聖霊を、わたしたちの内に燃え続ける火としてお与えくださる。見えなかった神が、見えるようになられるばかりではない。わたしたちの外におられた神が、「聖霊」としてわたしたちの内にまで来て、新しいいのちの「光」を点してくださる。クリスマスの秘義、それは、わたしたち一人ひとりにおける「光なるキリスト」の誕生です。
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。