カトリック上福岡教会

説教

年間第30主日(B年 2021/10/24)

マルコ10:46−52

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき」と、今日の福音は伝えていました。エリコからエルサレムまでは、距離にして約20キロ。エルサレムに向かう主キリストの旅も、いよいよ終りに近づいて来ました。マルコによる福音も、エリコでのバルティマイという名の盲目の人と主との出会いの後には、主が弟子たちとともにエルサレムに迎えられた時の様子を語ります。

ガリラヤ地方の北限の町フィリポ・カイサリアで、「あなたがたは、わたしを誰というか」との主キリストの問いかけに応えたペトロの「あなたはメシア、生ける神の子」との信仰告白を受けて、主のエルサレムへの旅は始められました。その後、既に一年に近い歳月が流れていたはずです。この間、主は三度、エルサレムでのご自身の「十字架と復活」について、弟子たちに予告して来られました。

それにしても、エルサレムへの主キリストと弟子たちの旅が終わる直前に、福音が、主が盲目の人の目を開かれたことを伝えることには、何か訳があるのでしょうか。

ここでわたしたちは、今日の福音の直前に伝えられていた、先の主日の福音のエピソードを想い起こさない訳にはいきません。そこに、主キリストの三度目にくり返されたご自身の「十字架と復活」の予告の直後に、十二弟子たちの内のヤコブとヨハネが、「主がエルサレムで栄光をお受けになられる時、すなわち王に即位される時、わたしたちを重く用いてください」と主に願い出たと伝えられていました。

先のペトロのキリスト告白以来、約一年の間、主キリストの弟子たちは、主と旅をともにしてきたはずです。文字通り、主と寝食を共にすることを許されて来たはずです。しかもこの間、弟子たちは、旅の途上で主ご自身から、エルサレムでの主の「十字架と復活」、つまり彼らを伴っての主のエルサレムへの旅の目的をも、彼ら自身の耳にくり返し聞かされてきたはずです。

それだけではありません。弟子たちは、主キリストに伴われての旅の途上で、多くの人々に出会われてきた主が、一人ひとりに仰せになられたこと、またなさったことを、弟子たち自身の目で、逐一、つぶさに見聞きして来たはずです。しかし、彼らの心の目は、主キリストに対しては閉じられたままであった、と言わざるを得ません。先の主日の福音で、ヤコブとヨハネの要求に対して、主キリストは彼らに「あなたがたは、自分が何を願っているか分かっていない」と、仰せになっておられました。

ヤコブとヨハネに対する主キリストのこのおことばは、今日のエリコの町の盲目の人バルティマイに対する主の問いかけと、深く結び合わされているように思われてなりません。主は、バルティマイに問います。「あなたは、わたしに何をしてほしいのか。」彼は、主に応えます。「主よ、目が見えるようになりたいのです。」

盲目の人バルティマイだけではありません。実は、主キリストの弟子ヤコブとヨハネこそ、「主よ、見えるようにしてください」と、願うべきであったのではないでしょうか。彼らだけではありません。わたしたちもまた、彼らとともに、同じ願いを主に願わせていただくべきではないでしょうか。「主よ、見えるようにしてください。」

わたしたち一人ひとりが、わたしたちの心の目に、イエズスさまを主キリストと、はっきりと見えるようにさせていただく。それ以外に、わたしたちには救われる道はありません。わたしたちの「信仰」とは、ただ漠然と神の存在を信じているということではないはずです。「信仰」とは、イエズスさまを主キリストと告白することです。イエズスさまを主キリストと、心の目にはっきりと見させていただくことです。

主イエズス・キリストに、正しく「主よ、見えるようにしてください」と求めた、バルティマイに、主は仰せになられました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」この主キリストのみことばによって、「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」と、マルコによる福音は、今日の盲目の人バルティマイのエピソードを結んでいます。

わたしたちの「信仰」には、「人格としての姿 persona」があります。「主キリスト」という「姿」です。その「姿」である「主キリスト」に、わたしたちの目が開かれた時、「信仰」がわたしたちを救ってくださる。「信仰」は主キリストだからです。

「盲人は、すぐに見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」主キリストの旅は、ここエリコを出てエルサレムへと向かいます。罪によって閉じていた目を、イエズスさまを主キリストと見る目に開いていただいた。その主キリストへと開かれた目を以て、エルサレムへ向かわれる主に従う。それは、エルサレムで、主がわたしたちにしてくださることの一切を、この目ではっきりと見させていただくためです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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