カトリック上福岡教会

説教

年間第29主日(B年 2021/10/17)

マルコ10:35−45

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「イエスは一同を呼び寄せて」と、今日の福音は伝えます。ここで「一同」とは、主キリストの十二弟子たちのひとり残らずすべて、です。何があったのでしょうか。

マルコによる福音は、この直前に、最初にはヤコブとヨハネ、後には十二弟子すべてを巻き込んでの、主キリストと弟子たちとの対話を伝えていました。まず、ヤコブとヨハネが、一つのことを主に願い出ました。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」

ここでヤコブとヨハネは、主キリストが旅の終わりエルサレムで、「王」に挙げられる事を期待し、その際、彼らを左・右の大臣に、つまり主の十二弟子たちの中でも、彼らが特別の地位に指名されることを、主に願い出ています。

二人のこのような願いに、わたしたちは戸惑いを覚えざるを得ません。彼らは、主キリストとともにエルサレムに向かう旅の途上、他の弟子たちとともに、旅の果てエルサレムでの主の「十字架と復活」の予告を、実に、既に三度、主ご自身から直接聞かされて来たはずです。しかも、マルコによる福音は、今日の出来事を、主の三度目の「十字架と復活」の予告の直後のこととして伝えているのです。

この二人に主キリストは、「あなたがたは自分が何を願っているか、分かっていない」とお応えになり、続けて、「このわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」と、お尋ねになられました。それでも主のお心を理解できない彼らは、即座に「できます」と主にお応えした、と福音は伝えています。

しかも、これを聞いていた他の弟子たちが、「ヤコブとヨハネのことで腹を立てた」とも福音は伝えます。主キリストとともにエルサレムに向かう他の弟子たちの主への期待も、実際のところヤコブやヨハネと異なるところがなかったということでしょうか。主の溜息が洩れ聞こえて来るような、主と弟子たちとのやり取りです。

確かに、主キリストはエルサレムで「王」として即位されます。しかし、「主のみ国」は、地上の力と富を求め、隣人から彼らの命を含めたすべてを奪い尽くすことによって建てられる罪の世に属す「この世の王国」ではありません。主が「王」として即位されるのは、そのような罪にしか生きられないわたしたちを罪から贖ってくださるために、主がご自身を十字架の犠牲とされることによって打ち建てられる「神の国」

エルサレムで、主キリストは十字架につけられ、三日目に復活される。ヤコブとヨハネを含む弟子たちすべてのために、本来彼らの負うべき罪の十字架を、主が代って担い、十字架によって罪赦された彼らに、復活して新しいいのちを与える聖霊を注いでくださる。主はそのようにして、彼らすべての魂の「王」となってくださる。

主キリストが彼らのために祈り、願い、彼らのために、旅の果てにご自分を十字架に引き渡そうとなさる。その主のおこころを、主ご自身によって三度もくり返された「十字架と復活」の予告によってさえも、弟子たちはまったく理解していません。

このような弟子たちに、「イエスは一同を呼び寄せて」仰せになられました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」

主キリストはエルサレムで「王」に即位される。しかし、最早、弟子たちに誤解は許されません。エルサレムへの旅は、彼らの願いや期待が成就するための旅ではないからです。彼らを伴ってのエルサレムへの旅は、彼らに対する主の祈りと願いが成就する旅だからです。十二弟子だけではありません。わたしたちにとっても、主キリストの祈りと願いの成就するところにのみ、わたしたちの救いがあるからです。

主キリストのわたしたちへの祈りと願いの成就するところ、主が「真の王」に即位される所、わたしたちのために「神の国」が打ち建てられる所。それは、十字架以外にはないのです。福音は、今日のエピソードを主の次のおことばによって結びます。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

今月10月は「宣教の月」。教皇フランシスコは、「宣教とは、人々に愛を届けることです」と教えてくださいました。先のベネディクト16世教皇も、「主から信仰(すなわち主キリスト)という人生における最も大切な賜物与えられたわたしたちは、その賜物を自分だけの許に留めておくことはできません」とお教えになっておられました。お二人は同じことを仰っておられると思います。愛とは、主キリストだからです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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