カトリック上福岡教会

説教

年間第28主日(B年 2021/10/10)

マルコ10:17−30

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「イエスが旅に出ようとされると」と、福音は語り始めます。この「旅」はエルサレムに向かう旅であり、その旅の終わりに主キリストを待ちうけていること、すなわち十字架と復活について、主はすでに二度弟子たちにお語りになって来られました。

マルコによる福音は、主キリストと多くの財産を持つ人との出会いを、三度目に主が十字架と復活の予告をされる、その直前に起こったこととして伝えています。これには意味があるはずです。この人が主キリストの許に走り寄り、ひざまずいて主に尋ねました。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」

「永遠の命」を願い求める。この人だけに限りません。わたしたちも、それを真剣に求めています。ただし、「永遠の命」とは、何でしょうか。「永遠」とは、「死に勝利する」と言うことです。使徒パウロがローマの信徒への手紙に語るように「死に勝利する」のは、「愛」だけです。そして、「愛」は「神」です。「神こそ愛」だからです。それは、使徒ヨハネが彼の手紙に語る通りです。しかも、神の愛にはかたちがある。ヨハネはそのことを、主イエス・キリストの具体的・人格的な事実として語っています。

「神は愛です。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネ4:8a−10)

「永遠の命」を求める。それは、「死に勝利する神の愛」を求めることです。それは、使徒ヨハネが示すように、「神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとしてお遣わしになられた御子」を求めることです。なぜなら、「ここに、すなわち、神の遣わされた御子に、神の愛がある」からです。むしろ、「神の愛」が、「十字架上でわたしたちを贖ってくださる御子キリスト」となってくださっておられるのです。

「永遠の命」を求める。それは、「神の愛である御子キリスト」を求めることです。実は、「永遠の命」その方である主ご自身が、「永遠の命」を求める、富める人の前に、今、立っておられるのです。そうであれば、この人が、主のみ前になすべきことはただ一つです。それは、ガリラヤ湖畔で主に呼ばれたペトロが、「すべてを捨てて、主に従った」ように、すべてを捨てて、主にお従いすることです。

「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と問うこの人に、主キリストは、「神のおきて」すなわちモーセの十誡を示されました。それは「神のことば」です。ところで先週の福音では、主キリストに敵対した律法学者やファリサイ派の人々は、「神のことば」を、「かつての昔に、神が語られたこと」と理解していました。今日の福音のこの人も同じです。彼は、主に、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えました。

しかし、「神のことば」とは、「神の愛のことば」であり、「ことばとなられた神の愛」「永遠の命キリスト」です。この人は、彼が求めた「永遠の命」主キリストの前に、今、立っているのです。この主に一切を託して従いさえすればよいのです。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人に施しなさい。…それから、わたしに従いなさい」との主のおことば通りにするだけです。

しかし、「その人は、(主キリストの)このことばに気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」と、今日のマルコによる福音は、主と、このたくさんの財産を持つ人との出会いの物語を結んでいます。

ただこの時、本当に「気を落とし、悲し」まれたのは、実は主キリストの方であられたのではないでしょうか。この人は、「永遠の命」を求めて主を訪ねました。そして、「永遠の命」、すなわち「死に打ち勝つ神の愛であるキリスト」にお会いしたのです。しかし、その時、彼はあれほどに求めていた「永遠の命」キリストに代えて、死とともに失われる彼の「たくさんの財産」を選び取ったのです。皆さんはどうでしょうか。

「子たちよ、神の国に入る、つまり「永遠の命」を得るのは、なんと難しいことか」と、主キリストは言われました。しかし主は続けて、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と、仰せになられました。

「永遠の命」に代えて、「地上の朽ちる財産」を選んでしまいかねない愚かなわたしたちに、主キリストご自身は、ご自身のいのちに代えてわたしたちを選んでくださる。それが、主のエルサレムに向かわれる旅です。わたしたちのために十字架におつきになられるために。「人間にできることではないが、神にはできる。神には何でもおできになる。」この愛の神に、この十字架の主キリストにのみ、救いがあります。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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