カトリック上福岡教会

説教

年間第23主日(A年 2020/9/6)

マタイ18:15−20

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」 

この主キリストのおことばに、そのおことばの確かさに、どれほど多くの人々が励まされてきたことでしょうか。とくに、カトリックが少数で、ともに祈りを合わせる人が限られている日本の私たちには、主のこのおことばの温かさが身に沁みます。

ただ、二人または三人の私たちは、なぜ、主キリストのみ名によって集まるのでしょうか。主は仰せです。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえて下さる。」たった二人でも構わない。人数は問われていません。たとえ二人あるいは三人だけであっても、私たちが主のみ名によって心一つにするところには、主が、必ず私たちとともにいてくださる。とくにごミサこそ、その時ではないでしょうか。そのために、主は私たちにごミサをお残しくださったのではないでしょうか。

しかし、実はごミサで私たちが気づくのは、私たちが主キリストのみ名によって集まる時、そこに主が私たちとともにいてくださると言うよりも、むしろ話は逆で、実は主の方が私たちをご自身の祈りに招いてくださっておられるということではないでしょうか。実際、ごミサは主キリストの招きによって始められます。したがってごミサにおいては、主キリストの祈りに、つまり主の御心に私たちが心を合わさせていただけるようにと、主が私たちをお招きくださったと言うことではないでしょうか。

福音は、主キリストが宣教の多忙なご生涯にもかかわらず、否、それ故にこそ、つねに主はご自身の静かな祈りの内に帰って行かれたことを伝えます。ごミサで、二人または三人の私たちは、この主キリストの静かな祈りの中に招き入れられます。それが、主のみ名によって祈る、と言うことではないでしょうか。その際、主のみ名によって祈るとは、私たちにとって主と心を合わさせていただくことに他なりません。

私たちの祈りはどのように始まるのでしょうか。それは、私たちのために祈ってくださる主キリストを仰がせていただくことから。私たちの祈りは、まず主のみ前に主を仰ぎ、主を礼拝させていただくことから始まるのではないでしょうか。

一人ひとりが主を仰ぎ、主を礼拝する時、一人ひとりの心は主と結ばれて一つとされます。そしてそれゆえに、主の許に集められた私たちの心もまた主によって互いに結びあわされて主のみ心と一つとされます。それが、主キリストの祈りの内に私たちが招かれるということではないでしょうか。実は、主の福音宣教の初めのおことば「悔い改めて福音を信じなさい」の「悔い改める」とは、元のギリシャ語では「(主と)心を一つにする」ないし「(主と)思いを合わせる」という意味なのです。主は最初から、私たちの心が主と一つに合わせられることを願っておられたのです。

しかし私たちは、残念ながら祈りにおいてさえ罪を犯し得る者です。私たちの祈りが自分本位で、他者を裁く罪を恐れます。私たちは自分の知恵や力では、祈りにおいてさえ罪から自由ではありません。しかし、主キリストの祈りに加えられる時は違います。聖霊によって働かれる主は、私たちを罪から自由にしてくださるからです。主キリストの祈りとは、私たちの罪を赦す聖霊の働きそのものです。事実、主は、今日次のように仰せでした。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

ヨハネによる福音は、同じことをご復活の主キリストの次のおことばとして伝えています。「主キリストは弟子たちにご自身の息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」(ヨハネ20:22、23)

主キリストのみ名によって祈る。それは主キリストの祈りに招き入れられて、主と、また主と一つにされた人々と心を合わせることです。ヨハネによれば、実はそれは、ご復活の主から私たちが共に聖霊を受けさせていただくことだったのです。その時、祈りとは聖霊によって私たちの内に愛を成就してくださる神のみ業です。神のこの愛のみ業のうちに、罪なる私たちにもかからず、私たちは聖霊によって罪赦され、その上さらに聖別されて、主と、そして隣人と心を合わせることが許されます。それが私たちの祈りです。その時、神は、私たちを罪から自由にしてくださるのみならず、罪人である私たちを用いて他者の罪を赦すことさえお出来になるのです。

主のみ名において、二人または三人の私たちが主キリストの祈りの内に招きいれられ、心を合わせて祈る時、私たちが体験させていただくこと。それは、主キリストの祈りにおいて働かれる聖霊なる神。私たち自身の罪、さらに私たちがともに生きる人々の罪を赦してくださる愛の神・主キリストの大いなるみ業です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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