カトリック上福岡教会

説教

年間第26主日(A年 2020/9/27)

マタイ21:28−32

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音のたとえの内に、主キリストは、「悔い改める」と言う言葉をくり返しておられます。しかし、「悔い改める」とはどうすることなのでしょうか。

日本語の「悔い改める」との訳語からは、「反省する」とか「心を入れ替える」というような消極的な響きを感じます。しかし、福音の記されたギリシャ語ではどうなのでしょうか。実は、「悔い改める」と訳された語は、ギリシャ語では、「(主と)心をひとつにする」ないし「(主と)思いを合わせる」という、極めて積極的な意味になります。

「主と思いを合わせ、心を一つにする」。主キリストが、今日の福音で私たちに願っておられるのは、まさにこのことではないでしょうか。そして、実はそれこそが、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とのおことばに始められた福音宣教の最初から、主が私たちに願ってこられたことであったはずです。

ただし問題は、私たちが「主キリストと心を一つにし」「主と思いを合わせる」などということが果たして可能なのかということです。そのようなことが、私たちの心掛けや思い次第でできるのでしょうか。第一、神ならぬ私たちが「神の御心や神の思い」を正しく理解しているといえるのでしょうか。主キリストが十字架につけられて殺されたのは律法学者たち、つまり神の心や思いを熟知していると自他ともに認めていた「神のみことば」の教師たちにではなかったでしょうか。

それでは、なぜ、私たちは「主キリストと心を合わせ、主と思いを一つにする」ことがそれほどまでに難しいのでしょうか。それは、私たちを神から、私たちの心を神の心から引き離しているのは私たちの罪だからです。つまり、私たちが「主と思いを重ね、心を一つにして生きる」ためには、それを不可能にしている私たちの罪が解決されなければならないということです。

したがって、「主と心を合わせ、思いを一つにする」(日本語訳では「悔い改める」)ためには、罪人の私たちが「心を入れ替える」「反省する」というような事では済まないのです。つまり、私たちの考え方や心の持ち方の問題などではなく、私たちの罪こそが問題なのです。このことは、カトリックの信仰理解の要(かなめ)です。しかしそうであれば、私たち人には、もはや為す術がないのではないでしょうか。

だからこそ、天の神が主キリストとして地の私たちのもとに来てくださったのです。罪なる私たちを救ってくださるためには、つまり私たちが神の御心を知り、神と思いを一つにして生きるためには、預言者を通して天から語りかけることでは済まず、私たちの罪を解決してくださるために私たちの罪の贖い主として神ご自身が地に来てくださる他なかったのです。そして、事実主はそうしてくださったのです。

主キリストは、「悔い改めよ」、つまり「神であるご自身と、心を合わせ、思いを重ねる」ようにと、天から私たちを教え、諭してくださるのではなく、地の私たちのもとに来てくださって私たちの罪を解決してくださるために、ご自身の肩に私たちの罪の贖いの十字架を負ってくださるのです。「私たちが、主なる神と心を合わせ、思いを重ねさせていただく」ためには、私たちにそれを妨げている私たちの罪を、神が私たちに代わって贖ってくださる他ないからです。

しかし、主キリストは、なぜそれほどまでに、私たちに「悔い改める」こと、つまり私たちが「主と心を合わせ、主と思いを重ねる」ことを願ってくださるのでしょうか。それはひとえに、私たちを「神の国」にお招きくださるためです。「神の国」とは、罪なる私たちの理想の国などではありません。いかに素晴らしく見える国であっても、主キリストが在まさなければ、そこは「神の国」ではありません。「神の国」とは神なる主キリストの御国です。それは、ほかでもにない、「私たちが、主と心を一つ、思いを一つにし、だからこそ主とともに永遠に生きることが赦される国」だからです。それゆえにこそ、私たちに「主と心を合わせ、主と思いを重ねる」ことを願われる主ご自身の肩には、私たちの罪を贖う十字架が負われてあるのです。

主キリストは福音宣教の初めから、十字架にご自身を犠牲として捧げて私たちの罪を赦し、それゆえ私たちが主と心を一つに、思いを合わせて生きる「神の国」に私たちを永遠に生かすために来てくださったのです。なぜなら、そこに、そしてそこにのみ私たちの真の幸いと祝福が保証されてあるからです。

私たちが、永遠に真の幸いと祝福に生きること。それが、そしてそれのみが、主キリストの私たちへの唯一の願いなのです。カトリックの私たちは、このような主キリストを私たちの神とさせていただいているのです。

信仰とは罪人の私たちの確信ではなく、主キリストには罪の贖いの十字架を求めることなのです。しかし主はそれを厭われません。私たちを「神の国」に招くために。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

ゆりのイラスト

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