説教
年間第24主日(A年 2020/9/13)
マタイ18:21−35
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」
今年の復活祭まで在任した川越教会でのことです。ある日、お聖堂で、「十字架の道行き」の聖画像の写真を一枚一枚ていねいに写真に撮っている方がおられました。私がその方に、司祭ですと申し上げますと、その方も自己紹介をしてくださいました。その方は、キリスト教の信者ではないとのこと。ただ、カトリック教会のお聖堂の「十字架の道行き」が気に掛かり、日本でも、外国でも、可能な限り訪問先の町のカトリック教会を訪ねて「十字架の道行き」を、写真に収めてこられたとのこと。
この方は、私に対する自己紹介を、次の言葉で結ばれました。「神父さん、私はキリスト教についての知識はありませんが、日本でも外国でも、教会で「十字架の道行き」を写真に撮らせていただいているうちに、キリスト教の真実は「赦すこと」にあるのではないかと思うようになりました。神父さん、私は間違っているでしょうか。」
私は、この方の言葉に息を呑みました。「キリスト教の真実は、赦すこと」。それこそ、主キリストの真実です。カトリックである私たちは、私たち自身が主に赦された罪人であることを頭では理解しているつもりです。しかし、私たちは、往々にしてこのことを忘れ、自分自身を、そして人を裁いてしまいます。しかも大切な時に限って。「キリスト者では無いけれども」と言われたその方は、「十字架の道行き」の前で、いつも十字架の主キリストに赦されている自分自身を見つめてこられたのでしょう。
短い時間でしたが、この方との会話は宗教の違いを超えて働かれる聖霊なる神のみ業を私に確信させてくれるに十分でした。むしろカトリックであるにもかかわらず、罪意識も乏しく、神への感謝も懺悔の心も鈍くなっている私自身を恥じ、この方に働かれる同じ聖霊なる神の恵みを、再度求めさせていただきたく切に願いました。
今日の福音の主題は、「赦す」ことです。主キリストが、今日の「王と家来のたとえ」によって私たちに問いかけておられるのは、他者の罪を糾弾する前に、私たち自身が神に赦されている、と言う事実を忘れてしまってはいないかということです。
先の方は、どこの町へ行っても、まずカトリック教会を訪ねて、「十字架の道行き」の聖画像の前に跪くと仰いました。赦されている自分を確認するためでしょうか。あるいは自分が赦されているにもかかわらず、他人を赦せない自分を懺悔するためだったのでしょうか。実は、カトリックのこの私こそ、そうあるべきでした。
カトリックの私たちは、お聖堂の「十字架の道行き」の主キリストの聖画像のみ前に跪かせていただくのみならず、私たちが与るごミサにおいては、福音とご聖体において現存される十字架の主キリストご自身にお会いさせていただくことさえ赦されているのです。この私のために、十字架で裂かれた主キリストの御からだ、この私のために十字架で流されたキリストの御血をいただくことさえ赦されているのです。
私たちカトリックには、先の「キリスト者では無いけれども」と言われる方以上に知らされていることがあるはずです。つまり、「主キリストの十字架の道行き」は、この私にとって文字通りのわが身の事実、主とわたし自身の真実であるということです。
カトリックのミサ曲のように、教会の「十字架の道行き」の聖画像も、宗教の違いを超えて万人を感動させる力があることは疑いようのないことです。しかし、キリストを主なる神と信じるこの私には、「十字架の道行き」は、芸術以上のものです。なぜなら、主キリストは、「十字架の道行き」の事実そのままに、私のために十字架を負い、十字架上に死んでくださったからです。この私の罪を赦してくださるために。
そうであれば、この主キリストのみ前に、私たちは主のお求めになるごとく、他者を七回どころか七の七十倍まで赦すべきでしょう。なぜなら、主キリストは、すでにこの私を、七回どころか七の七十倍まで赦してくださっておられるからです。
主キリストのみ業は、決して過去の物語ではありません。主のみ業は聖霊によって、私たち一人ひとりに対してつねに現在の恵みの事実だからです。しかもそれは、この私が赦されるだけではありません。聖霊によってこの私に働かれる主キリストの赦しの恵みゆえに、私たちも人を赦すことができるようにしていただけるからです。
主キリストは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」主のこのおことばは、決して私たちに対する主の無理な要求ではありません。赦された罪人であるこの私をさえ用いて、他者の罪の赦しのために、聖霊によって働かれる主キリストの恵みのみ業の約束とその事実です。
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。