カトリック上福岡教会

説教

主の変容(A年 2020/8/6)

マタイ17:1−9

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」

主キリストの光輝くお姿を目の前に仰ぎみることをゆるされたペトロの言葉です。

マタイによる福音は、主キリストの「パンの奇跡」の後、主が、「必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」(マタイ16:21)と、弟子たちに「打ち明け始められた」後、直ぐに続けて、今日の「主の変容」を伝えています。

このように語ることによって、マタイによる福音は、「パンの奇跡」すなわち主キリストとの「神の国の食卓」、続く主の十字架の死と復活の告示、さらに「主の変容」、この三つの出来事が、主キリストが神の御子、神ご自身であられることを、弟子たちに明らかにされた一連の出来事であることを、私たちに示してくれています。

主キリストの「山上の変容」。マタイによる福音は、その日、主は、ペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子を連れて「高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」と伝えていました。

さらにその時、弟子たちは「これはわたしの子、わたしの心に適う者、これに聞け」と「雲の中からの声」すなわち「父なる神の声」を聞いたとマタイは伝えていました。

エルサレムに最後に上られるに先立ち、天の御父とともに御子キリストは、ペトロたちに、エルサレムで十字架にお就きになられ、さらに復活される方が、実は父なる神の御子キリスト、神ご自身であられることを、御子ご自身の光輝く父なる神のお姿への変容および「神ご自身の声」を以て、予めはっきりとお示しになられました。

ところで、マタイは、モーセとエリヤの二人が「イエスと語りあっていた」内容を伝えていませんが、同じ時のことをルカによる福音は次のように教えてくれています。

(モーセとエリヤの)二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」(ルカ9:31)

ここで「最期」と訳された言葉は「過越」という字であることに注意したいと思います。そうであれば、高い山の上で「モーセとエリヤが話していた」「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期とは、主キリストがエルサレムで成し遂げられる「主ご自身の過越」すなわち主の十字架と復活のことであったことが分かります。

このように、山上での「主の変容」は、主キリストのエルサレムでの「主の過越し」つまり「主ご自身の十字架と復活」に堅く結びつけられています。だからこそ、主は、ご自身の「山上の変容」の前および後に、ご自身の「過越」すなわち「十字架と復活」を、三度繰り返して弟子たちに予告しておられたのです(マタイ16:21、17:22、20:18)。

私たちすべてを創造し、支配される天の父なる神。その御子キリスト、神ご自身が、十字架におつきになられる。「主キリストの山上の変容」と「過越つまり主の十字架と復活の予告」が相俟って、ここに驚くべき神の救いの秘義が明らかにされました。

ところで、「主の変容」は、マタイによる福音ではさらに、「パンの奇跡」の物語によって、主キリストの「過越の食卓」つまり「神の国の食卓」とも結びつけられています。

「主の変容」が、主キリストのご受難の40日前であったとの伝承から、紀元5世紀以来、教会の暦では、「主の変容」の祝日は、9月14日に祝われる「十字架称賛」の祝日の40日前の8月6日に祝われて来ました。ここで、「主の変容」が、主の十字架の40日前との教会の伝承は、モーセに導かれたイスラエルの民が約束の地に入るまでの荒野の40年の旅を思い起こさせます。

事実、「主の変容」の後、主キリストは弟子たちとともにエルサレムに上る旅に就かれ、その40日後にエルサレムに入城された主は、弟子たちを、主ご自身との「最後の晩餐」すなわち「主の過越の食卓」に招かれました。そのようにして、主は、約束の地である「神の国」を「神の国の食卓」を以てお示しになりました。

ただしそれは私たちにとって、主キリストの旅に伴い、旅の終わりエルサレムでの主の十字架と復活を通してのみ招き入れられる「神の国」です。その時、「神の国の食卓」に備えられ、私たちに与えられる「永遠のいのちの糧」が、実は「キリストのからだと血」であることが、ごミサの度に主ご自身によって私たちに明らかにされます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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