カトリック上福岡教会

説教

年間第22主日(A年 2020/8/30)

マタイ16:21−27

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

主キリストは、「わたしについて来たい者は」と、仰います。私自身にとって、主について行く、主にお従いさせていただく、そのこと以外に人生の目的はありません。皆さんもそうではないでしょうか。その私に、そして、皆さんに、主キリストは、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と、仰せです。

しかし、「自分を捨てる」とは、どうすることなのでしょうか。この自分を一体どこに、どのように捨てよと、主キリストは仰せなのでしょうか。私は、それは、「主キリストの内」に、私自身を捨てさせていただくのだと思います。言い換えれば、主キリストに、この私の一切を委ね切る、と言うことです。自分の負っている重荷も含めて、自分自身の一切を、主キリストに信頼し、主に委ね切らせていただく、ということです。

実は、主キリストの今日の福音のおことばは、今日になって唐突に語られたものではありません。今日の福音の少し前に、主は次のように仰っておられました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28−30)

軛や重荷、人生のあらゆる苦しみ、すなわち私たちの十字架。その中には、自らの罪とその結果もあるでしょうが、人生には病気や事故・災害のように全く理不尽に私たちに襲い掛かる苦しみもあります。多くの場合、それは私たちが自分で負うしかないと諦めます。しかしそれを主キリストは、私たちに「あなたの十字架」とは仰らず、わたしの軛わたしの荷」つまり主ご自身の負われるべき十字架と仰せです。

神なる主キリストご自身に、本来負われるべき苦しみ、軛や重荷、すなわち十字架などあろうはずはありません。しかし、私たちが自分で負うしかないと諦める軛、あるいは重荷を、主キリストはわたしの軛わたしの荷と言い、そのわたしの軛わたしの荷を、「わたし」と一緒に負って欲しいと、私たちに仰ってくださるのです。

今日の福音で、主キリストはこのおことばを踏まえて、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と仰せなのです。ここには、この私がひとり負う十字架、しかし私には負いきれない十字架を、わたしの軛わたしの荷と言い、そのわたしの軛わたしの荷を、私と共に負って欲しいと仰ってくださる主キリストがおられます。

私たちにとって、「自分を捨てる」とは、この主キリストに、神なる主キリストのみこころとみ腕の中に、自分を捨て切る、自分を委ね切ると言うことではないでしょうか。その時、主キリストは、その私たちを、私たちの軛、苦しみ、重荷ごと私たちの一切を、ご自身の十字架として、私たちと共に、私たちのために負い抜いてくださいます。

その時私一人で負うしかないと諦めていた私の十字架を、主キリストがすでにご自身の両肩に負ってくださっておられることを、私たちはこの身、この両肩に知らされ、わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われる主のおことばの真実に感謝をもって首(こうべ)を垂れさせていただくのではないでしょうか。

私たちは自らの十字架を負うことなくして真実の人生は無いことを知っています。自らの生死の問題や苦しみや罪を直視せず、したがって自らの十字架を認めず、自らの十字架を負うことを避ける人生は、偽りの人生以外の何ものでもありません。

とは言え、私たちは、自分の十字架を自分だけでは負い切れません。これも事実です。自分の十字架を、自分自身で負い切る力が無いのです。だから人生を、否、自らを偽るのです。自分自身の十字架が、自分にとって重すぎるからです。自分の十字架によって、自分が押しつぶされてしまうのです。そこに人生の解決はありません。

このような私たちに、主キリストは、その私たちの十字架を、わたしの軛わたしの荷と言われ、それを、ご自身と一緒に負って欲しいと、私たちに仰ってくださるのです。主キリストは私たちに、私たち自身の十字架を主と共に負わせていただく人生へと招いてくださるのです。その時、私たちは、嘘偽りの無い人生を生きることができます。そこにこそ、私たちの真実の人生があります。もし、主と共に十字架を負わせていただくことがなければ、私たちの真実のいのちは、どこにもありません。

主キリストは、私たちにわたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と、仰せくださいます。主キリストと共に私たちの十字架を負って歩ませていただく時、私たち自らの十字架を負う歩みが、主と共に生き、主の恵みを数える人生へと変えられます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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