カトリック上福岡教会

説教

年間第20主日(A年 2020/8/16)

マタイ15:21−28

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音には、一人の「カナンの女」が登場します。カナンの地に住む女性とは異邦人の女性。当時のファリサイ派の人々からは、異邦人は救いが約束された神の民とは厳格に区別され、神との契約の相手ではなく、「真の神」とも「真の信仰」とも無縁な神の救いの埒外の者と見なされていました。そのカナンの地の女性が主キリストを訪ね、主は彼女に「真の信仰」をお認めになった。それが今日の福音です。

確かに、この異邦人の女性にとって主キリストにお会いするまでは、「真の神」も「真の信仰」も無縁だったでしょう。神の民であることを誇るファリサイ派の人々は彼女を異邦人と見下し相手にしません。また彼女の方も、そのような彼らにはまったく関心はなかったでしょう。しかし、主キリストは彼らとはまったく異なった存在でした。彼女は主にどうしてもお会いしたいと切に願いました。そして、主にお会いした時、彼女は主に信頼し、自分自身と重い病を負う自分の娘とをお委ねしたのです。

主なる神に対して、これがこの異邦人の女性がしたことの一切です。しかし、神にとってはそれで十分でした。なぜなら、それこそ「真の神」が私たちに期待される「真の信仰」だからです。なぜなら、「真の信仰」とは、主キリストにおいて「真の神」にお会いさせていただき、主に信頼し、身も心も主に委ねること以外の何ものでもないからです。だからこそ、主キリストはこの女性に仰せでした。

「あなたの信仰は立派だ(十分だ)。あなたの願いどおりになるように。」

福音の語るこの物語に、私自身、畏れと感動の思いを禁じ得ません。私には、この異邦人の女性が他人とは思えません。私が最初に主キリストのことをお聞きした時、私自身が、「真の神」も「真の信仰」も知らぬ異邦人以外の何者でもなかったからです。しかし、今日の福音は、主キリストのみ前にはカナンの地の女性のように異邦人であること、つまりイスラエルの民ではないことなどまったく問題にはならないことをはっきりと示してくれています。それには、明確な理由があります。

つまり、その時カナンの女性の前に、そして今、私たちの前にお立ちになっておられる主キリストこそ、かつてイスラエルの民に預言者を通してみことばを語られた主なる神ご自身だからです。今や、主なる神ご自身が、主キリストにおいて私たち一人一人の前にお立ちになっておられる。この主キリストのみ前には、かつてのようなイスラエルの民と異邦人の区別はもはやありません。「一人なる神の前に一人立つ」この私があるだけです。私たちは、今、カナンの女性のように、この「真の神」キリストに信頼し、主に自らを委ねさせていただけば良いのです。それが「真の信仰」です。

今日の福音の物語は、また、「真の信仰」とは理屈でもきれいごとでも無いことを語ってくれているように思います。このカナンの女性は、恐らくは彼女の娘の病を契機に、自らと自らの過去を見つめ直し、そこで自覚された、実は娘の病に増して癒され難い自分自身の罪に直面し、主キリストのことが気になり始め、娘の救いのみならず、自分自身の救いを求めて、主にどうしてもお会いしたいと願うようになったのではないか。そして主にお会いし、自分と娘をともに主にお委ねしたのです。彼女にとって、それ以外に母子ともに救われる道、生きる道は無かったからです。

このカナンの女性が、母として重い病に苦しむ娘の救い、そして自分自身の救いを求めて一心不乱に主キリストを求めたように、まさに信仰とは、心から主キリストを求め、主にお会いさせていただき、主に自らを委ねさせていただくことです。

その時、主なる神キリストは、私たちが主にお会いするために、私たちの方で別人になって来るようにはお求めになっていません。たとえそのように求められても、カナンの女性にはどうしようも無かったでしょう。私も同様でした。若き日の仏道修行で直面したのは、修行によっても救われ難い私自身でした。その私が、幸いにも英国で主の教会に導かれ、真の救い主キリストにお会いさせていただきたいとの願いをあたえられ、しかも、その主に、ごミサにおいて確かにお会いさせていただき、その主に一切を委ねさせていただいたのです。

主キリストはカナンの女性に「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と仰せでした。つまり、「真の信仰」とは、「真の神」主キリストを心から求め、主にお会いさせていただき、主に自分も家族も委ねること以外のなにものでもなく、そして、主は、主を心から求める私たちに、ちょうどカナンの女性になさったように、私たちを家族ごと救ってくださるために、ご自身のからだを裂き、ご自身の血を流してまでしてご自身のすべてを私たちにお与えくださる、ということです。

実に、「真の信仰」をいただくことは、「真の神」主キリストご自身をいただくこと「真の信仰」である「真の神」主ご自身を、今、私たちはこのごミサでいただきます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ゆりのイラスト

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