カトリック上福岡教会

説教

年間第13主日(A年 2020/6/28)

マタイ10:37−42

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主キリストの宣教の御生涯は、弟子たちを伴ってのエルサレムに向かう旅でもありました。そして、その旅の果てに主と弟子たちを待ちうけていることを、主はよくご存知です。この大切な旅の途上で、主は弟子たちに、三度くり返して、しかも「はっきりと」、エルサレムでのご自分の十字架の死と復活を予告されます。主の弟子たちへのくり返される予告を、マルコによる福音は次のように伝えます。

「イエスは、『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に、復活することになっている』、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話になった。」(マルコ8:31)

エルサレムに向かう旅の途上、主キリストご自身の内に明らかに緊張が高まって行かれるのと対照的に、くり返し主のご受難の予告を聞かされながらも、心がそれについて行かない弟子たちがいます。主のエルサレムでのご受難の予告を二度目に聞かされた直後でさえ、弟子たちは、彼ら十二人の内で「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」とマルコは伝えます(マルコ9:34)。にわかに信じがたいことです。

しかもマルコは、この直後に十二弟子の一人ヨハネが、主キリストに次のように語ったと伝えます。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」(マルコ9:38)。一見、何気ないヨハネの主への報告に聞こえます。しかしこれは、主のみ前にあって、神と人とに対して極めて傲慢不遜な言葉と態度ではないでしょうか。彼は主の弟子というより、人々に対してまるで主になり代わったように振舞っています。事実、主はヨハネのこの不遜な振る舞いに深く心を痛めておられます。実は、今日のマタイの福音の主のみことばは、マルコでは主がこの時ヨハネに向けて語られたことばとされています。

「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ10:42、マルコ9:41)

今日のマタイも、主キリストのおことばを、主と共にエルサレムへ向かって旅する私たちが一体何者なのかを想い起させてくださるおことばとして伝えています。主のこのおことばから、ヨハネも私たちも、主の憐れみと主のご保護の許に生かされている「主の弟子」であり、「小さい者の一人」に過ぎないことを謙遜に自覚すべきです。ヨハネが、漁の仲間であったペトロ、ヤコブと共に、ガリラヤ湖の湖畔で、主キリストから召し出しを受けた時のことを思い出してください。ルカによる福音によれば、この時、主は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を、夜通し不漁であった彼らの網を魚で満たされた「湖の奇跡」をもって、彼らを漁師としてのそれまでの生活から主に在って神と人とに仕えて生きる全く新しい命、生活へと招いてくださいました。それは、彼らの思いや力を遥かに越えた光栄であったはずです(ルカ5:1−11)。

しかし、まさにその時、彼らは深刻な問題に直面せざるを得ませんでした。それは彼らの罪です。罪人は、神なる主キリストに直(じか)に見(まみ)えることは許されません。ペトロは主に招かれた時、ヤコブとヨハネと共に、「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い者なのです」(ルカ5:8)と、申し上げる他ありませんでした。罪なる彼らは、主キリストのみ前に、ひとえに神を畏れたのです。

しかし、彼らが、心から自分の罪を認め、懺悔し、主キリストを畏れたからこそ、主は彼らをご自分の弟子とされたのです。その上で、主は彼らに言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」その時、彼らはこの主に「すべてを捨てて従った」と、ルカは伝えていました(5:10、11)。

主の召出しを受けたこの時の謙遜なヨハネはどこに行ってしまったのでしょうか。罪故に主を畏れ、主の赦しの許にのみ、全てを捨てて主に従ったヨハネでした。その彼がいつの間にか、人々に対して居丈高に神の恵みを管理する者であるかのように振舞ったと、マルコは伝えるのです。主は、このヨハネに心を痛められたのです。

主キリストと共にエルサレムに上る旅。ヨハネだけではありません。私たちも、主と共にその旅の途上にあります。主キリストに従うこの旅は、誰にとっても、主のみ前に、神を畏れ、主の赦しの許に、謙遜と従順の内に全てを捨てて主に従い、神と人とに仕えて生きることを学ばせていただく旅、ではないでしょうか。このような私たちにもかかわらず、エルサレムへの旅の途上、主は、忍耐強く私たちに教え、さらに、主を訪ねて来る一人ひとりに、丁寧に心を尽くして出会って行かれます。

この旅は、主キリストにとっては、ご自身の十字架を見つめての旅です。「すべてを捨てて主に従う」私たちのために、主はご自身を、ご自身のいのちさえ、十字架に捨ててくださる旅です。私たちは、このことを決して忘れてはならないと思います。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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