説教
年間第12主日(A年 2020/6/21)
マタイ10:26−33
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。」(マタイ10:24,25)
主キリストは、十二使徒たちを宣教に派遣されるに際し、おそらく不安を覚える弟子たちに、すでにこのようにお語りになっておられました。これは、自分に何の知恵も力もない私たちにとって、励ましと慰めに満ちた主のおことばではないでしょうか。
これに続けて語られた主キリストのおことばが、今日の福音です。主は仰せです。
「人々を恐れてはならない。・・・体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
いうまでもなく、これは宣教に遣わされる弟子たちや私たちが、傲慢であってよいということではありません。ご復活の主キリストの使徒パウロも、神と人とに「謙遜と柔和の限りを尽くして」(エペソ4:2)お仕えするようにと、私たちを諭しています。
主キリストからのこのおことばをお聞かせいただく時、主が福音の宣教に遣わされる弟子たちに、「汚れた霊に対する権能をお授けになった」(マタイ10:1)と、今日と同じマタイによる福音が伝えていたことを、私たちは、改めて思い起こします。
ここで、十二使徒が主キリストから受けた「汚れた霊に対する権能」とは何でしょうか。もちろんそれは、「聖い霊、即ち聖霊の権能」。「聖霊」とは、ヨハネが伝える通り、ご復活の主キリストの「息」。「息」は「いのち」。即ち、ご復活の主ご自身のことです。
「(ご復活の主)イエスは重ねて言われた。『あなた方に平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(ヨハネ20:21,22)
実はここで、ご復活の主キリストは、宣教に遣わされる弟子たちに、主ご自身を与えておられるのです。そうであれば、福音宣教とは、十二使徒たちを通して、聖霊によって主キリストご自身がみことばを語り、み業をなさるということに他なりません。
事実、マルコによる福音は、ご復活の主キリストによって宣教に遣わされた弟子たちの様子を次のように伝えています。「(ご復活の)主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは、出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」(マルコ16:20)
言うまでもなく、十字架の前に弟子たちと寝食を共にしてくださった主キリストと、ご復活の主は、同じ主キリストです。そうであれば、今日の福音で使徒たちがご復活の主キリストから託された宣教の言葉も、十字架の前からの主ご自身の福音宣教のおことばと同じであったはずです。即ち、「天の国は近づいた」(マタイ10:7)。
同時に、ご復活の主キリストが使徒たちに託された宣教の働きも、十字架に至るまで主ご自身がなさったのと全く同じく、「病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払」(マタイ10:8)うということであるはずです。
福音宣教の働きが、このように勝れて主キリストのみことばと主のお働きに私たちがお仕えすることであることから、教会は、ご復活の主キリストから託された福音宣教の働きを、決して自分たちの宣教と称したことはなく、必ず「神の宣教」・「主ご自身の宣教」と呼んで、常に、栄光を主に帰させていただいて参りました。
そうであれば、使徒たちにとって福音宣教とは、各々主キリストから派遣された地で、ご聖体において聖霊によって現存される主ご自身にお仕えさせていただくこと以外の何事でもありません。それは、主キリストご自身の宣教の証人とされることです。「誇るならば、主を誇れ」(1コリント1:31)と使徒パウロが語る通りです。
それはまた、使徒たちにとって、遣わされたどこにおいても、ただ主キリストのみを畏れて生きることです。「人々を恐れてはならない」、さらに「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と、主キリストが仰せになっておられる通りです。
宣教とは、聖霊によって現存される主キリストにお仕えすること。それは、聖霊なる主キリストの世に対する勝利の証人とされるのみならず、私自身の罪に勝利を収め、私を罪から解放してくださった救主キリストの証人とされることです。人を恐れず、主のみを畏れて生きる。それが、私たちに主から託された主の宣教・福音宣教です。
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。