カトリック上福岡教会

説教

復活節第4主日(A年 2020/5/3)

ヨハネ10:1−10

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」

主キリストが私たちに約束される「豊かないのち」とは、主ご自身のいのちです。今日の福音で、主キリストは、自分の命に代えて羊を大切に養い守る「羊飼い」と、羊たちを自分のために食い物にする「盗人」とを比べて、ご自身の使命を明らかにされました。今日の福音に続けて、主はご自身について更に次のように明言されます。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:11)

思い出すことがあります。主キリストは、宣教のご生涯の始めに、「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」と、マタイによる福音は伝えていました(マタイ9:35)。しかし、主キリストが行き廻られた町や村で、主が見出された私たちの現実とは、どのようであったといわれていたのでしょうか。マタイによる福音は、続けていました。

「イエスは、群衆が牧者のいない羊の群れのように疲れ果て、倒れているのを見て、憐れに思われた。」(マタイ9:36「フランシスコ会訳」)

主キリストの話されたユダヤの言葉では、「復活する」とは、元来、倒れている人を抱き起こす、さらには傷ついた人を介抱する、という意味の言葉です。そうであれば、「牧者のいない羊の群れ」とは、ご復活の主キリストに見出され、抱き起こされ、介抱されるべき、私たち自身の現実の姿、ではなかったでしょうか。

その私たちに、主キリストは、繰りかえし「わたしは良い羊飼いである」と仰せです。しかも主は、このことばに加えて、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のためにいのちを捨てる」(ヨハネ10:14,15)、と仰せになられます。

御父と御子が互いを知る。それは御父と御子が一つであるということです。同様に羊飼いである主キリストが私たち羊を知ってくださる。それは父なる神と御子が一つであるように、主は私たちとご自身とを堅く一つに結びつけてくださるということです。かつては「牧者のいない羊」のようであった私たち。それは、唯一人の牧者である神から、罪ゆえに離れてしまっていた私たちの現実の姿でした。そのような惨めな私たちとご自身をもう一度堅く結びつけてくださる。そうまでして私たちをご自身と一つにし、私たちを愛してくださる主キリスト。ヨハネは語り継ぎます。

「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(ヨハネ10:16)「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠のいのちを与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(ヨハネ10:27−28)

実は、主キリストは、このことばを、次のさらに驚くべきことばによって結ばれます。

「わたしの父がわたしにくださったものは、全てのものより偉大であり、誰も父の手から奪うことはできない。わたしと父は一つである。」(ヨハネ10:29,30)

「父がわたしにくださったもの」とは、父なる神が御子キリストに託し与えられた者たち、つまり私たちのことです。その私たちを主は、「全てのものより偉大である」(フランシスコ会訳では、「他の何ものよりも価値がある」)と仰せです。そしてそれゆえ、主キリストは、私たちを「だれからも決して奪わせない」と仰せです。すなわち、主は、私たちをご自身のいのちに代えても守り抜いてくださる、と言うことです。

実に驚くべき主のみことばです。私たちは、到底、主キリストご自身のいのちを賭してまで大切に守られるに値する者ではあり得ません。しかし、「わたしと父は一つである」と仰せの御子キリストは、ご自身と一つなる父なる神のみ旨に忠実に、たとえご自身のいのちを犠牲にしてでも私たちを守り抜いてくださる。事実、主キリストは、後にご自身の十字架と復活において、このおことばの通りにしてくださいました。

ここに神の愛があります。御子と私たちを堅く一つに結びつけてくださる父なる神の愛。しかし、その神の愛は、私たちのために御子に十字架と復活を求める愛です。

「わたしが来たのは、羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる。」(ヨハネ10:10,11)

その「良い羊飼い」・十字架と復活の主は、必ず皆さんとともにいてくださいます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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