カトリック上福岡教会

説教

主の昇天(復活節第7主日)(A年 2020/5/24)

マタイ28:16−20

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

最後の晩餐の席で、主キリストは、ご自身の十字架を前に弟子たちに、「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたの所に戻って来る」と仰せでした。事実、主は十字架の死の後、私たちの所にご復活の主としてお戻りくださり、その後「弁護者」である「聖霊なる主」として、いつも私たちと共にいてくださいます。

しかし、ご復活の主キリストは、なぜ今日天に昇られるのでしょうか。なぜ主は、ご復活のままのお姿で地上に留まってくださらないのでしょうか。実は、主は、最後にエルサレムに入城されてすぐ、ご自身のご昇天について、次のように仰せでした。

「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネ12:32)

主のご昇天。それは、私たちのためです。すなわち、主キリストご自身が天の父なる神のもとに抱き上げられるとき、主は私たちをご自分のみ手に抱き上ってくださる

旧約及び新約の言葉で「復活する」、さらに新約の言葉で「弁護する」も、元来は、「抱き起こす」「抱き上げる」と言う意味の言葉であると、すでに申しました。ご昇天においても、主キリストは私たちを「抱き上って」くださいます。父なる神のみ許へ。

ところで今日の福音で、ご復活の主キリストのご昇天を前になお、弟子の中には、主のご復活を「疑う者もいた」と聖書は伝えます。気に掛ります。聖書では、神を疑うことを「罪」と言うからです。しかし不思議な事に、ご復活の主ご自身は、弟子の内にご復活を「疑う者がいる」ことを、特に問題にしておられません。なぜでしょうか。

ご復活の主キリストは、すでに十字架上で、私たちの罪に最終的な勝利を収めておられるからです。今や私たちの罪でさえ、ご復活の主の私たちへの愛を妨げるものではありません。それゆえ、ご復活の主は、今なお主のご復活を疑う者をも含めた私たちすべてに、ご自身の約束と命令のことばを託すことがおできになるのです。

ご復活の主キリストは、私たちに、罪への罰に代えて聖霊を与えて、私たちをキリストのもの(キリスト者)としてくださいます。これが、罪人である私たちへのご復活の主の最終的な愛の勝利です。その主が、地上から上げられる時、私たちすべてを、天の父なる神のもとへ抱き上げてくださいます。ご復活の主は仰せでした、

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」(マタイ28:18)

聖霊によりキリスト者とされた私たちは、自らを縛りつけていた一切の偽りの力や権威、すなわち疑い、罪、死から全く自由です。今や、真の力と権威は、自分で自分を愛することさえできない私たちではなく、私たちへの愛ゆえにご自身のいのちさえ捧げてくださった主キリストが持っておられる。このことこそ、救いです。

実際、もし私たちの命を最終的に決定する存在が私たち自身であるならば、つまり私たちにとって神が無い、あるいは私たち自身が神でなければならないとするならば、それほど恐ろしいこと、それほどの悲劇がまたとあるでしょうか。私たちが行き詰まり、絶望と死の淵に佇む時、最早、救いはないからです。

しかし、十字架とご復活の主キリストが、私たちに対する最終的な力と権威を持っておられるならば、私たちがいかに行き詰ったとしても、主キリストは、なお、私たちに道を開いてくださることがおできになる。私たちの内には、最早、絶望と死の他には何も無くとも、主キリストの内には、なお希望といのちがある。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」主のこのことばこそ、私たちの希望です。

その上で、「だから」と、主キリストはおことばを続けられます。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」

主キリストは私たち全てに、洗礼の秘跡によって「父と子と聖霊の名」による新しい命をお与えくださいます。ただそれはいかなる命であり、私たちはそれをどのように受けるのか。さらにそれをいかにして多くの人々と分かち合って行くのでしょうか。

ご昇天に先立ち「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と仰せの主キリストは、最後の晩餐で私たちにご聖体の秘跡すなわちごミサを残してくださいました。ご聖体こそ「父と子と聖霊の名によって」私たちが全ての人と共に受ける新しい命。この命は、主のご昇天により天の永遠のいのちに堅く結ばれます。

「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

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