カトリック上福岡教会

説教

復活節第5主日(A年 2020/5/10)

ヨハネ14:1−12

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしは道である」と、主キリストは仰せです。主は、『論語』を残した中国の儒教の孔子のように、「道を教える」とは仰いません。また、仏教の開祖であるインドの釈迦牟尼仏陀のように、「道を示す」とも仰いません。主キリストは、「わたしが道である」、と仰います。しかし、これは不思議なことばです。

聖地を訪ねられた方はご存じでしょう。エルサレムの町全体を囲む城壁の外は、見渡す限り砂漠に近い荒野です。そこには道などありません。オアシスの緑と次のオアシスの緑の間は、ただ茫漠たる土色の荒野です。その荒野で羊の世話をする羊飼いにとって、荒野に道などありません。

そこでは羊飼い自身が、羊のために、文字通り「道」である他ありません。羊には、荒野に緑のオアシスを探す知恵も力もありません。羊たちは、彼らの羊飼いを「道」として、一つの緑のオアシスから次の緑のオアシスへと命を繋ぐほか生き延びるすべはありません。羊飼いを失えば、羊たちには、死が確実に待ちかまえています。

主キリストは、「わたしは道である」と仰せです。荒野の羊は、道を教えられても、あるいは道を示されても、どうしようもないのです。羊飼いを「道」とするほかに、羊の生きる術はないのです。実は、私たちも荒野の羊たちと同じではないでしょうか。

人生という荒野の中で、一つの緑のオアシスからその先のオアシスへの道は、私たちには見えません。たとえ道があると思っても、その道が私たちをどこに導くか、実際には誰にも解りません。また、誰かに道があると言われ、その道の方角を示されたとしても、荒野には、次のオアシスまで私たちを確実に導いてくれるような目印はありません。人生という荒野に立ちすくむ時、私たちには道はありません。羊飼いである主キリストご自身が、私たちにとって「道」となってくださる他ないのです。

「わたしは道である」と言われる主キリストは、続けて、「わたしは命である」と仰せです。その通りです。私たちは、主に示された道を自ら辿って命に至るのではありません。荒野の羊たちにとって、羊飼いを離れることが死を意味するように、私たちも、「道」である主キリストを離れて「命」はありません。「主キリストがともにいてくださること」、それが、そしてそれだけが、私たちの「命」です。

主キリストという唯一の「道」に私たちの「命」が掛かっています。「道」である主キリストに私たちの一切を委ね切る。実は、それしか私たちに生きる術はありません。

主キリストはこのことばを、十二人の弟子たちとの最後の晩餐の席でお語りになりました。主は、弟子たちとの過ぎ越しの晩餐と、続く十字架と復活において、ご自分が成し遂げられることをすでにご存知でした。弟子たちにとって、いのちである父なる神に至る道がご自身以外にないことを、主はご存知でした。

最後の晩餐の時には、弟子たちは主キリストのおことばを十分に理解することはできなかったと思います。しかし、主は、そのような弟子たちに、最期の晩餐に続く十字架において、ご自身の御からだとご自分の御血、つまりご自身の命を捧げて、彼らのために、父なる神に至る「道」、さらに「真理」となってくださいました。事実、「わたしは道であり、命である」と仰せの主キリストは、加えて「わたしは真理である」と仰せになっておられます。ただし、「真理」とは何でしょうか。

「真理」とは、「閉ざされているものを開く」ことを意味する言葉です。主キリストは、私たちに「閉ざされていたものを開かれる」。それが、主が「真理」であるということです。ただし、何が私たちに閉ざされていたのでしょうか。それは「天」です。私たちの罪ゆえに「天」が閉ざされていたのです。主キリストが、その「閉ざされていた天」を「開いて」くださった時、私たちに「真理の霊」である「聖霊」が降ります。神の居す「天」は、「聖霊のご聖櫃(せいひつ)」に他ならないからです。

「真理」には、したがって、「隠されていたものが現れる」と言う意味もあります。私たちに天から「聖霊」が与えられる時、罪ゆえに私たちに隠されていた真実が現わされます。それは、私たちに主なる神から、元来与えられていた、「命の真実」です。ご復活の主キリストの使徒パウロは語ります。「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3:3−4)

良い羊飼いである主キリストは、ご自身を「道」として私たちを「神の命」の内に導き入れてくださいます。ご自身の十字架と復活を通し、「真理の霊」によって。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

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