説教
「おそれることはない」 復活祭の黙想
マタイによる福音28:1−10
主キリストのご復活の日の朝早く、マグダラのマリアたちは、十字架の後に主のおからだが収められた墓を訪ねました。その彼女たちが墓に着いた時、神は「天使」を通して彼女たちにお声をかけてくださいました。「おそれることはない。」
「おそれることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていた通り、復活なさったのだ。」
しかしこの時、マリアたちは一体何を「おそれていた」のでしょうか。神を、でしょうか。あるいは、他の何ものか、でしょうか。
「おそれることはない。」わたしは、マリアたちに語られたこの神のことばに胸を突かれました。いつも何かに怯えているようなわたしは、一体何をおそれているのか。神を、なのか。もしそうだとしても、神に「おそれることはない」と言っていただかなければならないほどに、わたしは真実に神をおそれて生きているのか。わたしは何をおそれているのか。
『おそれることはない』と題された、第二次大戦中のスイスのある神学者の説教が残されています。その説教は次の言葉で結ばれています。「もし、わたしたちが真に神を、神のみをおそれるならば、わたしたちは神以外の一切のものに対するおそれから自由になる。しかしわたしたちが、もし真の神を、神のみをおそれることがないならば、わたしたちは、真の神以外の一切のものをおそれて生きる他はない。」
これは、戦時中のナチスの軍靴の響きの中で恐怖と不安に心が動転し、神を、そして自らをも見失っていた人々に向けて語られた言葉です。しかし、これは、新型ウイルスが世界で猛威を振るうさ中にある、今のわたしたちも心して聞くべきメッセージではないでしょうか。
もし、神から「おそれることはない」とのみことばを聞かせていただくことがなければ、「神をおそれ、神ならぬ一切のものをおそれない」ということに思いも及ばなかったわたしでした。その結果、神をも、わたし自身をも見失い、わたしを取り巻き、わたしに襲い掛かるあらゆる現実の中でいや増す不安と神以外のあらゆるものへのおそれに囚われて、わたしは生涯を空しく過すことになったかもしれません。
愛してやまなかった主キリストの十字架の死。頼りにし切っていたに違いない主のまったく思いもよらない死。主キリストのご復活の朝早く、神から「おそれることはない」とのみことばを聞かせていただくその時までは、マグダラのマリアたちの心を占めていたのも、真におそれるべき神へのおそれというよりも、おそれるべきではないもの一切、すなわち彼女たちのこれからの生の不安と、さらには主を失った彼女たちを取り巻くすべてのものに対するおそれ、では無かったでしょうか。
しかし、もはやその必要はない。ご復活の日の朝、神はマグダラのマリアたちに語られたのです。「おそれることはない。」その時、マリアたちは、まことにおそれるべき唯一の方、死を越えたご復活の主キリスト、まことの神に出会ったのです。
それは同時に、おそれる必要のない一切のものへのおそれから解放され、自由にされた瞬間であったはずです。「おそれることはない。」神のこのことばに、マリアたちは「大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」「そのマリアたちの行く手に」と、福音は次のように感動的に伝えています。
「ご復活の主イエスご自身が立っておられた。」
まことに「神を、神のみをおそれる」者から、神は、神以外の一切のものへのおそれを取り除いてくださいます。実はこの神こそ、主キリストにおいて、すでにわたしたちに親しくお会いくださっておられた方です。十字架に至るまで、わたしたちを愛し抜いてくださった方です。この方が、今、ふたたびわたしたちにお会いくださる。それが、主キリストの復活です。
「おそれることはない。」
マグダラのマリアだけではありません。これは今のわたしたち一人ひとりへの、死に打ち勝たれたご復活の主キリストからの愛と慰めと励ましのおことばです。
「おそれることはない。」
ご復活の主キリストが、皆さんとともに。