カトリック上福岡教会

説教

待降節第一主日(B年 2020/11/29)

マルコ13:33−37

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

カトリック教会はアドベントからアドベントへと一年の歩みを進めます。アドベント第一主日。アドベント第一ろうそくに火を灯し、教会暦の新しい一年の始めをミサで祝います。一週ごとに光を増すアドベントのろうそくの光は、ヨハネによる福音の冒頭に語られる「光である主キリスト」を証しする次のことばを私たちに想い起こさせます。

「光は闇の中で輝いている。闇は光に打ち勝たなかった。(フランシスコ会訳)」

闇がいかに深く重くとも、また闇の支配が永遠に続きそうに思えても、「一燭の光」が灯されれば、闇は終わります。闇は光に対しては完全に無力だからです。(新共同訳は「闇は光を理解しなかった」としますが、ギリシャ語 kata-lambanou は「全く力が及ばない、完全に無力である」が原意で、「闇は光に打ち勝たなかった」と訳すフランシスコ会訳がより自然です。)

アドベントは、祭色の「紫」が示すように、神のみ前に「目を覚まして」祈り備える大切な時です。日本ではアドベントを、人を主語に「待降節」即ち主キリストのご降誕をわたしたちが「待つ時」とします。しかし、ラテン語の「アドベント」は、使徒ペトロの言葉「神の確かな約束に従って来たりたもう主キリスト(ペテロ第2、3:13)の如く、主なる神が主語で「主が来られる」と神的事実を宣言する緊張感のある言葉です。

「神の確かな約束」ゆえに、わたしたちは空しく時を「待つ」ことはありません。ペトロの言葉のように、主キリストは、「神の確かな約束に従って来たりたもう」からです。この神の確かさの前に、わたしたちには単に「待つ」という以上に、緊張感をもって「来たり給う主にしっかりと備える」ことが求められます。マルコが、いわゆる「終末預言」の一節とされる今日の福音の内に、主がわたしたちに対して「目を覚ましていなさい」と、三度も繰り返して仰せになられたと伝えるのはこのためです。

聖書のギリシャ語で「終末」eschaton が、単に時間の経過による「時の終わり」でなく、神が創造の力と権威によって「古きを終わらせ、新しきを始める特別な時・歴史の転換点」を意味する言葉であることは既にお話ししました。したがって「終末」とは、具体的には古きを終わらせ、新しきを始めることがおできになられるただ一人の方・天の父なる神が、決定的な目に見えるお姿、つまり主キリストにおいて歴史にご自身を現わされる時とその事実を示します。「終末」とは、主キリストの時です。この「終末」、つまり古きを終わらせ新しきを始める「神の新しい創造の時」の中心に立っておられるのは、神なる主キリストご自身です。「目を覚ましていなさい」と主は仰せです。この主キリストから、わたしたちは目を反らしてはなりません

今日の福音に先行する主キリストのいわゆる「終末預言」の中で、主は天変地異や戦争などの「大きな苦難」に触れておられました。2011年3月11日の東日本大震災の深すぎる傷がいまだ癒やされることの無い中での今年のコロナ感染症の拡大は、すでに世界で多くの命を犠牲とし、日本でもその終息の兆しが見えないばかりか返って猛威を増す中で、いわゆる「終末の徴」を巡っての巷の議論は尽きません。

ただし主キリストは、そのような「大きな苦難」でさえ「まだ世の(正確には、神の時の)終わりではない」(マルコ13:7)と仰せの上で、ご自身の「終末預言」をいわゆる「主の来臨」の約束によって結ばれます(13:24−27)。「来臨(再臨)」と訳されたギリシャ語 parousia は、元来「目の前の(para)存在(ousia)」を意味する言葉であることは既にお話ししました。この主のみ前に(parousia)「目を覚ましていなさい」と主は仰せです。「終末」eschaton 神の新しい創造の大切な時に、「新しい時」の中心に立っておられる神ご自身の確かな存在(para-ousia)を見失ってはなりません。主はそのためにこそ、神との確かな出会いの時であるミサをお定めになっておられるのです。

「目をさましていなさい」との主キリストのおことばは、ゲッセマネの主を思い起こさせます。弟子たちのすぐ傍らで(parousia)世を徹して祈っておられる主のみ前で(parousia)眠り込む弟子たちに、「なぜ眠っているのか。目を覚まして祈っていなさい」と仰せでした。ルカは「終末預言」の結びに、「主の前に立つ力が与えられるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(21:36)との主のおことばを伝えています。

「目を覚ましていなさい。」それは、主キリストがともにいてくださる(parousia)というミサ毎に体験する事実に立って、この主による新しい時、つまり「主の時」の証人とされるためです。「終末、つまり主の時」であるアドベントは、降誕日に聖母マリアさまからお生まれになる救い主キリストのみ前に立つ力が与えられるように、わたしたちにその力をお与えくださる聖霊を求めて、目を覚まして祈る大切な時です。

アドベント第一ろうそくに火が灯されました。「闇は光に勝てない」のです。さらに二本目、三本目、四本目とアドベントのろうそくに火を灯し続けて、この世を光である主キリストで満たしつつ、主のご降誕の日に、目を覚まして祈り備えたいと願います。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

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