カトリック上福岡教会

説教

王であるキリスト(年間34主日)(A年 2020/11/22)

マタイ25:31−46

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)

待降節直前の主日を、教会は「王であるキリスト」の祭日として祝います。来週から始まる4週間の待降節を経て、降誕日に聖母マリアさまを通してお迎えする主キリストこそ、天地万物の主であり、私たち神の民「すべて」の王であられることを、待降節を控えた今主日、あらかじめ深く心に留めさせていただくためです。

この主なる神であり、王であられる主キリストが、人知れぬナザレの村の貧しいおとめを母としてお生まれになられる。「王であるキリスト」の祭日は、来るべきクリスマスの神の受肉の秘義について、立ち止まって黙想させていただく時でもあります。

元来、聖書において「王」とは、神によって、神と神の民「すべて」のための奉仕者として立てられる存在です。したがってその「王」には、神と神の民「すべて」に果たすべき二つの使命があります。一つは、神の民「すべて」にパンとブドウ酒、すなわち日毎の糧を保証すること。二つには、その同じパンとブドウ酒を奉献しての神の民「すべて」の神への礼拝を神のみ前に責任を以って整え、司(つかさど)ることです。

神の民「すべて」と言う時、神が最も心にかけられるのは、民の内「最も小さい者」のことです。もし「最も小さい者」が無視され犠牲にされるならば、民の「すべて」ではありません。強い者たちだけのためなら王は不要です。「最も小さい者」をこそ含んで「すべて」の人々のために神は王を立てられるのです。しかし、イスラエルの歴史で、この神のみ旨に生涯忠実に、神と人とに仕え切った王はいませんでした。

それゆえにこそ、父なる神は「最も小さい者」をこそ含んで、私たち「すべて」のために、御子キリストを王としてお与えくださいます。しかし、そのために神がなさってくださったことがあります。それは、神が主キリストにおいて、私たちの「最も小さい者」とご自分をひとつにしてくださった、むしろ、ご自身を「最も小さい者」としてくださったことでした。実はそれなしに、主キリストが神の民「すべて」の王となってくださる道はなかったからです。主は仰せでした。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

主キリストが、私たちの中の「最も小さい者」を「兄弟」、つまりご自分と同じ者と呼んでくださる。主にとってそれは極めて具体的な事実でした。主はご自身、私たちの「最も小さい者」が日々味わっている「飢えと渇きに苦しみ、家のない旅の生活や身を守る術の無い裸の辱め」を味わい、「病気や入牢」さえも経験されました。

これだけでも驚くべきことですが、話はこれで終わりません。今日の福音は、続いて詳細に語られる主キリストの十字架に至るご受難と死、いわゆる「主のご受難の物語」の直前に、主キリストご自身がお語りになられたおことばです。実は、主キリストが続いて実際に体験されることになる十字架のご苦難と死の事実の前には、今日、主が語られた「飢えや渇き」などの体験の一切をしても、それらはいわば序曲にしか過ぎません。主キリストが、ご自身を「最も小さい者」と完全に一つにされ、そしてそれゆえにこそ言葉の真実の意味において神の民「すべて」の王となられるためには、実に、神の御子キリストをして、「十字架上の戴冠式」が求められたのです。

事実、主キリストの十字架上の戴冠式無しには、神と人とに対するまことの王の第一の使命、すなわち、私たち神の民「すべて」に、パンとブドウ酒をくださることは不可能でした。まことの王である主キリストが、神の民、つまり私たちの「すべて」にお与えくださろうとされるのは、私たちのこの世の命を支えるパンとブドウ酒だけではないからです。実はそれは、私たち神の民「すべて」に「永遠のいのち」を与える唯一のパンとブドウ酒、すなわちご自分の御からだと御血に他ならないです。

加えて、主キリストの十字架上でのご自身の犠牲奉献無しには、神が私たち神の民「すべて」のためにまことの王に託された神と人とに対する第二の使命、すなわちパンとブドウ酒を捧げて、神の民「すべて」を、神への真の奉献の礼拝に整えることも不可能でした。天の父なる神への唯一の捧げものは、永遠のパンとブドウ酒、すなわち主キリストご自身の御からだと御血以外には、実際にはあり得ないからです。

天の父なる神は、唯一のまことの王である主キリストにおいて、ご自分の民、つまり私たちの「最も小さい者」にご自分をひとつにしてくださった。むしろ、神なる主キリストこそ、私たちのただ中で「最も小さい者」になってくださった方、その方ご自身でした。私たち「すべて」のために、ご自身を十字架上で犠牲にされるまでして。

私たちはこの主キリストを、唯一のまことの王としてお迎えします。降誕日の夜マリアさまを通して。これが、私たち「すべて」が祝うクリスマス・神の受肉の秘儀です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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