カトリック上福岡教会

説教

年間第27主日(A年 2020/10/4)

マタイ21:33−43

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。
これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」

主キリストが、今日のたとえの最後に引用されたことばは、詩編の第118編の言葉です。この詩編は、ユダヤの「過越の祭」の食卓で詠われた、いわゆるハレル詩編歌と呼ばれた一群の詩編の中でも、とくに「過越祭」の最後に詠われた詩編です。

福音書は、主キリストと弟子たちが過越の食事、いわゆる「最後の晩餐」の結びに詩編を歌ってオリーブ山へ行かれたと伝えています。そうであれば、詩編118編のこの言葉の響きの中で、主キリストは弟子たちとゲッセマネの園に向かわれたと言うことになります。そして皮肉なことに、この同じ詩編の、実は衝撃的な言葉の響きの中で、弟子たちはその夜、主キリストを捨てて逃げ去ったわけでもあります。

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。 
これは、主のなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」

「最後の晩餐」に続く、主キリストの十字架の死と復活の出来事、さらにはそこで露わにされた弟子たちとすべての人間の罪の現実を、この詩編の言葉ほどに鮮やかに言い表していた言葉は、他に無かったと言うべきかもしれません。

主(神)がなさったことは私たち人間の目には「不思議」に見えると訳されています。これは、聖書の元の言葉ではむしろ、「驚嘆する、つまり驚き畏れる」と言う言葉です。畏るべきこと、驚嘆すべきこと、あり得ない事、が起こったと言うことです。

「家を建てる者の捨てた石。」それは大工、実際は石工(いしく)の役に立たぬとの判断で「捨てられた石」です。実は直訳すれば「粉々に砕かれ捨てられた石」。神は、この粉々に砕かれたその石を「隅の親石」、誰にも二度と砕き得ない「盤石の岩」とされた。これは不思議と言う以上に驚嘆し、畏るべき神のみ業すなわち奇跡です。

そして、神の新たに建てられる家、すなわち神の教会は、この盤石の岩の上にのみ建てられます。神は、私たち人の目に良く見える石の中から立派な石を選ばれたのではありません。私たちが砕き捨てた石を、永遠の岩、盤石な教会の礎とされたのです。それが、主キリスト。十字架において砕かれ、しかし復活された主キリストです。

ところで、その石を粉々に砕き捨てたのは「家を建てる者」であったと言われています。事もあろうに、神の遣わされた石工、つまり文字通り真の「家を建てる者」である主キリストを前に、彼になり代わって「家を建てる者」を名乗る者は一体何者なのか。神の前に、恥も畏れも知らぬ、倒錯した人間の姿がここに極まっています。

しかし、これは決して他人事ではありません。神の遣わされた唯一の「家を建てる者」である主キリストのみ前で、事もあろうに「家を建てる者」を名乗り、主キリストなる石を粉々に砕き捨ててしまうことさえする私たち、そして、その罪の恐ろしさ。

しかし、私たちのそれほどまでの凄まじい罪でさえ、全能の神の私たちへの慈しみと愛を妨げることはできません。神は、私たちが「砕き捨てた石」主キリストを、私たちのために「盤石の岩」にされたのです。神は、御子キリストを十字架につけるほどの私たち罪人を、まさにその主の十字架によって救ってくださるのです。

詩編118編は、先の言葉に続いて、次のように祈ります。
「今日こそ主の作られた日。・・・
主の名によって来たる者に祝福あれ。」

神の作られた今日この日に、主の名によって来たる者。それは主キリスト以外にはおられません。この方こそ実に、私たちの罪によって粉々に砕き捨てられることを通して、私たちの命を盤石の岩であるご自身である主の教会の上に建てることがおできになる方。この方のみが、私たちの罪の贖いゆえに十字架上で砕かれることを通して私たちの罪を赦し、私たちをご自身とともに復活させてくださる唯一の方です。それはひとえに、私たちに対する主なる神の慈しみと愛ゆえです。

このような神、このような主キリストのみ前に、私たちには、最早、不思議、否、驚嘆と畏れ以外には、何も残されていません。ただ、主に感謝し、主を礼拝するのみです。詩編118編は、次の言葉によって、祈りを結んでいます。

「あなたこそわたしの神、わたしはあなたに感謝します。わたしの神よ、わたしはあなたを崇めます。主に感謝せよ、主は恵み深く、その慈しみは永遠。」

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

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