カトリック上福岡教会

説教

年間第29主日(A年 2020/10/18)

マタイ22:15−21

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」主キリストは、仰せです。しかし、「皇帝のもの」、「神のもの」とは何なのでしょうか。

教会は、今日のこの福音を聞いて捧げる本日のごミサの「奉納祈願」(聖書と典礼)で、次のように祈ります。「万物の造り主である神よ、あなたからいただいたパンとブドウ酒を供えて祈ります。神のものをすべて神にお返しになったひとり子イエスの奉献に、きょうもわたしたちが固く結ばれますように。」

「神であるあなたからいただいたパンとブドウ酒」。もちろん、神は、最初から「パンとブドウ酒」をくださるわけではありません。「パンとブドウ酒」は、神からの「大地の恵み」である麦とぶどうを元にしての私たちの「労働の実り」です。それにもかかわらず、私たちは、その「パンとブドウ酒」を、あえて「神からいただいたもの」、すなわち、本来「私たちのもの」ではなく、「神のもの」と、神に感謝し、祈るのです。

「主は与え、主は取りたもう。主のみ名は、ほむべきかな。」災害ですべてを失ったヨブの言葉です。今年の新型コロナ感染症を含めここ数年の相次ぐ災害で、ヨブのように私たちも、大きな犠牲を払って学ばせていただいた大切なことがあると思います。それは、「麦とぶどう」の「大地の恵み」は、確かに神からいただいたものですが、それだけではありません。「大地の恵み」から「パンとブドウ酒」を生産する私たちの命、「大地の恵み」よって生かされている私たちの自身もまた、実は、神からいただいた恵み以外の何ものでもなかったという厳粛な事実では無いでしょうか。

あらためて、主キリストが、「パンとブドウ酒」という形で、ご自身のいのちを私たちにくださったことの大切さを思います。「パンとブドウ酒」は、私たちが地上で命を繋ぐために不可欠な日ごとの糧であるとともに、それによって支えられる私たちの地上の命そのものの象徴です。そして、その一切が、神からいただいた恵みです。

しかし、「パンとブドウ酒」によって、私たちに、神がお与えくださる恵みは、実は、さらに大いなるものではないでしょうか。なぜなら、「パンとブドウ酒」は、天の父なる神と地に住む私たちを、地上の命を超えて、永遠に「固く結び合」わせてくださるために、神が私たちにお与えくださる恵み、でもあるからです。

私たちは、神からいただいた「パンとブドウ酒」を、感謝を以って神に奉献することを通して、「神のものをすべて神にお返しになったひとり子イエスの奉献に私たちが固く結ばれ」る事が許されるのです。なぜなら、そのように、私たちの主キリストが、弟子たちとの「過ぎ越しの食事」、すなわち「最後の晩餐」において私たちにお定めくださったからです。そして、私たちにとって、ごミサこそ、それです。

「パンとブドウ酒」は、神からの大いなる恵みです。私たちの地上の命を支えるのみならず、主キリストに結び合わされるミサにおいて私たちの命を天に繋ぐからです。

従って、「パンとぶどう酒」は、私たちがそれを自分だけのものと主張し、その結果、私たちの間に争いや悲劇を生み出すために、神から与えられるものでは決してありません。そうであれば、地上の皇帝すなわち為政者の役割は明白です。それは、私たちを、神のみ前に神の民として整えること以外にはありません。第一に、私たちに日ごとの糧としての「パンとブドウ酒」を保証することによって。さらに重要なことは、その「パンとブドウ酒」を神に捧げることによって、私たちがキリストの奉献に結ばれることができるように、すなわち神への礼拝へと私たちを整えることによって。

今日の「集会祈願」のように、「世界を治める唯一の神、すべての人を救いに導いてくださる方」である主キリストから、皇帝つまり為政者に託されている奉仕、つまり「皇帝のもの」とは、ひとえに私たち主の民のために来られた主キリストへの奉仕であるはずです。そうであれば、私たちにとって「皇帝のものは皇帝に返す」とは、皇帝つまり地上の為政者が、「神のものをすべて神にお返しになる」キリストに正しく奉仕できるように、彼らために罪の赦しを求め、彼らのために祈ることでしょう。

「パンとブドウ酒」は、私たちの日ごとの糧として神からいただいた命であるとともに、実はそれ以上に、それらを捧げて主キリストの奉献に固く結ばれるために、すなわち、主キリストと結ばれて永遠のいのちに与るためにこそ、神からいただいたものです。このことの重要性は、疫病や相次ぐ災害で多くの命を天に送った私たち、とくにカトリックの私たちには、現在身に沁みて感じられることではないでしょうか。

今、私たちと私たちの愛する日本の望みはどこにあるのでしょうか。それは、神からの恵みである「パンとブドウ酒」を神に捧げ、主キリストご自身の神への奉献に固く結ばれることではないでしょうか。なぜなら、主に固く結ばれる事以外に、私たちの永遠のいのちへの希望はどこにもないからです。主が永遠のいのちだからです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

ゆりのイラスト

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