カトリック上福岡教会

教会報から

浦上四番崩れ〜幼いころに聞いた旅の話〜第三部

Bさん(男性)

浦上四番崩れ(その2)

これまでお伝えした浦上四番崩れの発端を振り返ってみると、1865年3月のプティジャン神父による長崎大浦天主堂での「信徒発見」が、この事件の始まりでした。

切支丹禁教令によって一人の司祭も宣教師もいなくなったわが国で、幕府の目の届きにくい地方や離島に潜んで、7代250年間にわたって密かに信仰を伝えた続けた私たちキリスト者の祖先たちは、ローマのパパ様から遣わされたパードレによって、ようやく再び聖霊の光の中に歩み出したのです。

1867年4月には自葬事件が起こり、浦上村700戸の全住民たちが、切支丹であることを自ら公に名乗り出ました。

しかし、同年7月に83名の切支丹たちが捕らえられて厳しい拷問と説得を受け、82名の信者が棄教してしまいます。もっとも、10月には最後まで棄教を拒んだ高木仙右衛門を含む全員が釈放され、村に戻った82名はすぐに“改心戻し”を願い出て元の信仰に戻ってしまいました。

その10月には江戸幕府が崩壊し、薩長勢力を中心とした明治政府が発足します。しかし、切支丹に対する禁教政策はそのまま新政府に引き継がれました。明治新政府で長崎の切支丹問題を担当した公卿の澤宣嘉は、神道を中心とした国家建設を図り、一層厳しい切支丹禁教政策を行いました。

1868(明治元)年5月、明治天皇の御前会議で木戸孝允、井上馨、大隈重信らは、浦上村切支丹の総配流を決定しました。

まず、7月12日には長崎県知事の命令によって出頭した、高木仙右衛門ら浦上切支丹の中心的な人たち114名が、そのまま萩に66名、津和野に28名、福山に20名と別れて流されていきました。これが浦上全村配流の第1陣です。

やがて浦上村全村民は、老若男女を問わず最長6年にも及ぶ過酷な配流生活を送ることとなりました。

最終的に613人もの殉教者を出して6年間を耐えた浦上信徒たちは、信仰の自由を勝ち取って郷里に戻った後、この全村配流を「旅」と呼んで自分たちの信仰の証しとし、子や孫に語り伝えたのです。

祖母から聞いた「旅の話」

連載第一部の最初にお伝えしたとおり、早くに父を亡くした私と弟はほとんど祖母に育てられました。祖母は長崎県西彼杵郡浦上山里村の出身ですが、親たちが「旅」から戻って16年後の明治22年に生まれました。この明治22年は「信教の自由」が明文規定された大日本帝国憲法が公布された年です。

祖母も、そして浦上浜口町出身の祖父も「旅」には行っていません。しかし、まるで自分たちが体験したことのように、幾度も「旅の話」を私たちに聞かせてくれました。

ただ祖母の話は、彼女自身が体験者から直接聞かされた島根県津和野での様子ばかりだったので、私は配流地が津和野だけでなく西日本を中心とした全国22か所に及ぶことも、流された全村民の総数が3,394人にも及ぶということも、自分自身で「旅」のことを調べ始めるまでは知りませんでした。

祖母から聞いた「旅の話」は、津和野に流された高木仙右衛門や守山甚三郎の話が中心でした。

浦上本原郷の農民高木仙右衛門も、中野郷の農民守山甚三郎も、共に1867年の自葬事件の折に捕えられて入牢し、厳しい拷問を受けました。しかし仙右衛門は最後まで信仰を守り通したのに対して、若い甚三郎の方は、捕縛される際には落ち着きはらって縄を受けたため、捕り手たちに「切支丹の神通力をもっているに違いない」と恐れられたという逸話を持ちながら、厳しい拷問に耐えきれずに棄教してしまい、村に帰ってから仙右衛門に説得されて、再び「改心戻し」をして切支丹に戻った人でした。

それでもこの二人は、それぞれ「旅」の出来事を覚書として書き残し、後世に伝えた信仰の偉人達です。

津和野の切支丹詮議

津和野は島根県の西南端に位置し、冬になると日本海から冷たい風が吹き付けて大雪に見舞われる土地です。

明治元年の7月に初めて津和野に流された浦上切支丹は28名。この時ほかにも萩に66名、福山に20名と、総勢114名の者が夏着のまま何も持たずに流されています。

私が聞いた話では、初めは津和野でも「責め」はあまり厳しくなく、光淋寺というお寺に住まわされて主に口頭での尋問が行われていたそうです。それでも、6人の者が早く我が家に帰りたいために改心(棄教)してしまい、別の尼寺に移されました。

役人はこの弱みを見て、残りの者も全員棄教させようと取り調べを厳しくしました。食べ物を減らしてひもじい思いをさせ、日没時の寒気にさらして尋問し、牢となった寺からは畳がはがされて布団の代わりにムシロが一人1枚ずつ配られたそうです。全員夏着のままですので、冬の寒さをしのぐため、毎日1枚ずつ配られた薄紙を飯粒で貼り合わせて夏着の下に入れ、夜には凍りつくような板の間でムシロをかぶり、互いに暖をとるため二人ずつ抱き合って寝ました。一夜のうちに3回も4回も腹を合わせたり背中を合わせたりして、夜の明けるのを待ちました。飯は小さな茶碗で1日1杯に減らされ、塩と水だけの汁が出されました。3日から5日に一度は順番に役人に呼び出されて説得され、脅され、そして殴られました。

それでも屈しない者たちは、三尺牢に押し込められました。1辺1mにも満たない狭い檻に押し込められると、足を延ばすことも立つこともできず、わずかばかりの藁の上にうずくまって幾晩も明かし、シラミや自らの糞尿の悪臭に悩まされ続けました。最初にこの拷問を受けたのは27歳のマリオ・アンチニオ和三郎でした。彼はこの牢の中で20日間頑張り通しましたが、ついに病気となり1868(明治元)年10月9日に、苦しみのうちに津和野初の殉教の栄冠を受けました。

明治2年1月20日には、32歳のヨハネ・バプチスタ安太郎が三日三晩雪のちらつく外庭に敷かれたござに座らされた後、三尺牢に移されそこで息絶えました。

守山甚三郎の覚書には、30日も前から降り続いた雪が庭に2〜3尺も積もった11月26日(旧暦)の未明に、甚三郎と高木仙右衛門の二人が呼び出され、厚く氷の張った池に投げ込まれたとあります。少し長くなりますが引用します。

「ちょんまげの頭に巻いたる紙のこよりも切りのけ、着物も褌も取りのけ、二人を池のへりに連れ行き『さあ、入れろ』と言うや否やにドンと突き落とす。氷は破れ、あちこち泳ぎ回れども深くて背は届かず、真中に浅き所あり顎までつかる。天を仰ぎて手を合わせ、サンタ・マリアに訴(祈願)の御取次を頼み、ジェズスの御供を願い、仙右衛門さんは、天にいますの祈りをなさる。私は身を献げる祈りを申します。その時役人申すに『仙右衛門、甚三郎、天主が見ゆるか。さあ、どうじゃ』とあざけり、顔に水を繰り掛け、繰り掛け、息もつけぬばかりになりました。」

結局、二人は息も絶え絶えの状態になってやっと池から引き上げられるのですが、「もはや息が切れんとするときに当たりて、役人が『早く上げろ』と言いつけました。その時警固の役人『早く上がれ』と申したれど『いま宝の山に登りおるからは、この池より上がられん』と言うておるうちに竹の先に鉤を付け、鉤の先に髪毛を巻き付け、力任せに引き寄せられました」

総配流

こうして明治元(1868)年に津和野に流された28人は、「旅」の第一陣でした。

明治2年7月、新政府で長崎切支丹問題を担当した強硬派の公卿、澤宣嘉が外務卿となり、官制改革で神祇官が太政官の上位におかれて神道の祭典や宣教などを司ることになりました。こうして王政復古の思想を推進してきた人々の発言力は絶大なものとなり、懸案となっていた浦上切支丹総配流の執行は、もはや時間の問題となりました。

明治3(1870)年1月1日、「明朝6時、立山役所に集まれ」という出頭命令が浦上切支丹の戸主700名に出されました。

各国公使や領事らの必死の中止要請にもかかわらず、1月5日には戸主700名が、6日には前年に萩・津和野・福山に流された114名の人たちの家族が、そして、7日には残り全部の村民が、結局最終的には老若男女併せて3,394名もの村民が全員検挙・配流されました。

その配流先は、大和郡山、大和古市、伊賀上野、伊勢二本松、名古屋、和歌山、金沢、鳥取、松江、津和野、岡山、広島、福山、徳島、高松、高知、萩、鹿児島、姫路、松山、大聖寺、富山の計21藩22か所に及びました。

切支丹たちは既に殉教の覚悟を決めていたので、家からはわずかな身の回りの物を持って出てきただけでした。

各配流先でも、切支丹たちへの扱いは悲惨を極めました。棄教させるための拷問は、先に流された者たちが受けたむごい仕打ちとなんら変わらないものが、幼い者にも年老いた者にも同じように振るわれたのです。(第三部 完)

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2013クリスマス号(2013年12月25日発行)より転載

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