教会報から

浦上四番崩れ〜幼いころに聞いた旅の話〜第二部

Bさん(男性)

信徒発見

昨年11月15日に上福岡教会の新しい聖堂で、ワレ神父様は80人の幼稚園児とその保護者たちに囲まれて楽しそうに七五三のお祝いの式を挙げてくださいました。そしてその18日後に、皆に大きな驚きと悲しみを残して突然天国へ旅立たれました。12月7日の川越教会での通夜では、何人ものパリ外国宣教会の神父様たちが、ワレ神父様の明るさ陽気さについて話されていたのが印象的でした。

ワレ神父様やコルベジエ神父様、現役ではローランド神父様など多くのパリ外国宣教会の神父様たちがさいたま教区でも司牧にあたられています。まるで信徒発見前後の長崎や横浜でのように。

1658年、今までの「修道会によるアジア宣教活動」に限界を感じていた3人のフランス人イエズス会司祭が揃って司教に叙階され、宣教地での現地人司祭の養成と叙階を行う権限を与えられて、バチカンの布教聖省からアジア諸国に派遣されることになり、ここに「パリ外国宣教会(パリミッション会)」が発足しました。

このパリ外国宣教会こそが、幕末から現代に至るまでの日本カトリック教会の発展に大きな業績をもたらすのです。

1853年にペリー率いるアメリカ東インド艦隊が260年に及ぶわが国の鎖国政策を打ち破り、1862年には横浜や長崎などの外国人居留地内に教会堂を建てることを幕府に認めさせました。

パリ外国宣教会の司祭たちは、これらの教会建物を見物に来る日本人の中に密かに切支丹の教えを受け継いでいる者がいるのではないか、との期待を抱いていました。

1865年2月19日、金色に輝く十字架を戴いた3本のゴシック尖塔が天高くそびえる聖堂が、長崎大浦の外国人居留地に完成しました。

そしてそれはこの大浦天主堂の献堂式からひと月後の3月7日の出来事でした。

昼の12時頃、十数名の老若男女が天主堂の前に立っているのをプティジャン神父は見つけました。

閉まっていた天主堂の門を急いで開けて祭壇の方に進むにつれ、彼らも聖堂の中に入ってきました。

神父は御聖体の前でひざまずき、これらの人々の中に主を礼拝する人を得させてください、と熱心に祈ったといいます。

しばらく祈った時、40から50歳くらいの婦人が神父のすぐそばまできて「ワタシノムネ、アナタノムネト オナジ」と小声で囁きました。プティジャン神父はこのことばを生涯忘れることがありませんでした。

婦人は自分たちが浦上郷の者で、浦上ではほとんどの人が自分たちと同じ心を持っていると伝え、さらに「サンタマリア ノ ゴゾウハ ドコ?」と尋ねました。

フランス渡来の聖母像が安置されている脇祭壇に彼らを導くと、彼らは歓びのあまり口々に言い始めました。「そうだ、本当にサンタ・マリア様だよ!ご覧よほれ。御子ジェズス様を御腕に抱いていらっしゃる。」

この報は瞬く間にパリ外国宣教会本部やバチカンのローマ教皇庁へと伝わり、ヨーロッパ中に大きな驚きと喜びをもたらしました。しかしプティジャン神父の報告の中には忘れてはならない重大な事柄が加えられていました。「日本はまだキリシタン禁制の中にあるので、この出来事は極々内密にして新聞などには一切発表しないでほしい。そうしなければ宣教師は再び日本から追い払われ、信者たちも厳しい迫害を受けるだろう。」

自葬事件

JR長崎本線終点の長崎駅の1つ手前の駅が浦上駅で、江戸時代にはこのあたりは町の中心部から外れた貧しい農村でした。

この村の農民のほとんどは幕府の定めた「寺請け制度」のもと、聖徳寺という寺の檀家として仏教徒を装い、その実密かに先祖から伝わるキリスト教を伝え続けてきた「隠れ切支丹」たちでした。250年もの間日本に一人の宣教師もいなくなってしまったときに、仏教徒を装わねば生きてゆけなかった潜伏切支丹たちは、お寺参りをし、絵踏みを行なうたびに罪の意識に苦しみ、「こんちりさんのりゃく」という懺悔のオラショ(祈り)を心の拠り所として暗誦しひたすら神に祈り続けました。

その罪の意識ゆえに一層強く神に赦しを求めることが、何世代もの間厳しい弾圧が続き一人の司祭もいないという状況の中で、神から離れまい、神にすがって必死に生きていこうとした彼らの悲しい妥協の結果でした。このように神にすがり、神に赦しを願って生きていこうとする心があったからこそ、切支丹たちはひたすら信仰を伝承し、コンヒサン(告解)のできるパードレ(神父)がやってくるのを辛抱強く待ち続けることができたのです。

プティジャン神父によって発見された浦上切支丹たちは、自分たちが250年間守り続けてきた信仰がローマの信仰を正しく伝えたものか疑問を持ち、かわるがわる密かに大浦天主堂を訪ね、改めて教えを学び直し始めました。

信徒発見後間もなく、貧しい浦上の信徒たちはわずかずつの金を出し合って、大浦天主堂まで行けない女子どもや病人老人のために4か所に藁ぶきの秘密の礼拝所を作りました。「公現の聖マリア堂」「公現の聖ヨゼフ堂」「サン・フランシスコ・ザビエル聖堂」「サンタ・クララ堂」と名付けて、おもにローカニュ神父が深夜に密かに巡回して回りました。

1866年、プティジャン神父は司教に叙階されました。この年のクリスマスは浦上切支丹にとっては新しい司教を迎えての喜ぶべきミサであり、彼らの心の拠り所ともなるものでした。

そんな折の1867年4月、浦上本原郷の茂吉が死にました。切支丹たちは一応聖徳寺に報告し僧侶を迎えに行きました。

この時代の寺請制度のもとでは、家族の者が死んだ場合には檀那寺へ申し出て僧侶に死亡を確認してもらい、経をあげてもらわねばなりません。僧侶が経をあげている間切支丹たちは隣の部屋で「お経消し」のオラショを唱え、僧侶が帰るや否や改めて切支丹の葬り方で葬儀を行なっていたのです。

しかし、ローマのパパ様から遣わされたパードレに改めて教えを聞き、告解(ゆるし)の秘跡を受けミサにあずかった切支丹の心は燃え上がっていました。

彼らは一応聖徳寺に死者の出たことを報告して僧侶を迎えに行きましたが、使いの者が道すがらわざと無礼なことばかりをしたので、僧侶は怒って途中から引き返してしまい、茂吉の家では僧侶なしで急いで葬儀埋葬を終えてしまいました。これを知った聖徳寺の住職はこのことを村役人の乙名に告げ、乙名は庄屋に訴えました。こうして村人たちが切支丹であることが明るみに出ました。

浦上村の本原郷400戸、家野郷100戸余り、中野郷200戸の住民がこの時聖徳寺と縁を切ることを希望して、庄屋にその名前を書き出し提出しました。この年に浦上の切支丹の代表がローマ教皇ピオ9世に宛てた書簡には、おおよそ700戸の切支丹家族があると記しているので、村人のほぼ全員が聖徳寺との縁切りを願い出たことになります。

過去の浦上一番崩れから三番崩れまでは密告によって切支丹が検挙されましたが、今度は切支丹自身が厳罰をも甘んじて受ける覚悟で自葬を断行し、檀那寺との縁を切って自ら明るみへ出て行ったのです。

浦上四番崩れ(その1)

1867年7月15日の早朝、大雨の降りしきる中、170名に及ぶ捕り手が浦上の4つの秘密礼拝堂に踏み込みました。

この日捕縛されたのは男女合わせて67名でしたが、その後も自葬事件は相次ぎ、入牢者の数は83名に達しました。

この83名の切支丹への扱いはひどいもので、四畳一間に33名もが押し込められ、動くこともままならずに飢えに苦しみました。役人の巧みな尋問もあって、まず21名の切支丹が棄教してしまいました。

そのうえこの21名は、自分たちは棄教したのにすぐに釈放されないのは彼らのせいだと、棄教せずにいる者へ不満の矛先を向けました。このような心理状況の中で、棄教する者たちがさらに続くことになったのです。

プティジャン司教の依頼で行われた各国公使の抗議に対し、幕府は切支丹には拷問はしないと約束していましたが、実際にはひどい拷問が行われていました。入牢者守山甚三郎の覚書には「駿河問い」という両手と両足を背中に回して縛り上げ、梁に吊るして鞭打つというひどい拷問の様子が書かれています。これらのむごい拷問によって、遂に83名のうち高木仙右衛門を除く82名全員が棄教を申し出て釈放されました。

ただ一人信仰を守り通した高木仙右衛門は1867年10月11日に釈放されました。一方、棄教して一足先に村に戻った者たちは家族からも迎え入れられず、後悔の念にさいなまれていました。仙右衛門は彼らが「回心戻し」ができるようにと家族に協力を呼びかけて説得しました。

彼らは仙右衛門が戻った翌日の12日には庄屋屋敷の玄関に行き、土下座してまた元のように切支丹に戻りたいという「回心戻し」を願い出ています。

このように厳罰を受けることもなく今回の浦上切支丹問題が曖昧なままになっていたのには、それなりの理由がありました。

1867年10月14日、15代将軍徳川慶喜は政権を朝廷に返し、12月9日には王政復古が宣言され、ここに江戸幕藩体制は終わりを告げたのです。

政権は朝廷に戻ったのですが、明治政府は徳川幕府の切支丹禁制策をそのまま継承しました。1868(明治元)年3月14日、太政官から発せられた「五榜の掲示」という明治政府が民衆に出した最初の禁止令高札の第3条には「切支丹邪宗門の儀は堅く御禁制たり。もし不審なる者これあればその筋の役所へ申し出るべし、御褒美下さるべくこと」とあります。

この高札が建てられた2日後の3月16日には、高木仙右衛門を含む男女24名が井上馨によって取り調べを受け、そして4月29日には再び仙右衛門をはじめ浦上切支丹の戸主180名が役所に呼び出され、長崎鎮撫総督兼外国事務総督並びに長崎裁判所総督を務める澤宣嘉卿自身が12名の役人を従えて取り調べに当たりました。

このころ、関東以北ではまだ続いていた戊辰戦争の影響で、切支丹問題の処理は遅れがちでした。5月17日になって明治天皇の御前で、木戸孝允、井上馨、大隈重信らは参与の小松帯刀の意見を入れて浦上切支丹全員の配流を決定しました。

まず1868年7月12日、長崎県知事名によって出頭した浦上切支丹の中心的な人たち114名がそのまま、それぞれ萩に66名、津和野に28名、福山に20名と別れて流されていきました。

これが明治政府によるキリスト教徒大弾圧、いわゆる浦上四番崩れの「旅」と呼ばれる苦難の始まりでした。(第二部 完)

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2013被昇天号(2013年8月15日発行)より転載

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