教会報から

浦上四番崩れ〜幼いころに聞いた旅の話〜第一部

Bさん(男性)

旅の話

私は昭和26年に横浜市鶴見区矢向という川崎市との市境近くの町で、9人兄弟の8番目、四男坊として生まれました。父の出身地は長崎県浦上で、祖父の実家は長崎市内に、祖母の里は浦上にあったそうです。

昭和16年に、浦上から母の里のである横浜に一家とともに移り住んだ祖父母は、ともにそれは熱心なカトリック信者でした。特に「浦上四番崩れ」といわれる明治初期の大迫害の生き残りを一族に持つ祖母は、その熱い信仰を私達孫にまで強く伝えました。

昭和31年3月に癌のために帰天した父に代って家業は祖父と母と兄が受け持ち、幼い私達はほとんど祖母に育てられました。そしてこの祖母から家庭での信仰教育を厳しく受けたのです。

祖母は寝物語によく「旅」の話を聞かせてくれました。「天主様バ信心スッコツハ国カラキツウ禁ジラレトッタバッテン、ドギャンシテモ信心バ捨テンモンハ、ソリャアムゴカ目ニアワサッタトサ(私たちの神様を信じることは国から厳しく禁じられていて、信仰を捨てない者は、それは惨い目にあわされたのだよ)」。

「旅」とは、浦上郷の700戸に及ぶ全切支丹住民3,300余名を鳥取、松江、津和野、萩、富山など計22か所へ総流罪とし、拷問などの過酷な説得取調べによって棄教を迫った「浦上四番崩れ」と呼ばれる、明治政府による切支丹大迫害事件のことで、これは現在も学校の歴史の授業ではほとんど触れられていません。

今となっては祖母の話の具体的な内容はほとんど思い出せないのですが、「教えを捨てないために、氷が張った庭の池の中に一晩中漬けられて死んだ少年」や「庭の木に全裸で縛られたまま、降る雪に頭まで埋まっても教えを捨てずに頑張った娘さん」あるいは「縦横高さ3尺(1m弱)の狭い檻の中に何日も押し込められ、自分の糞尿にまみれて転ぶ(棄教する)ように責められた」といった悲惨な話ばかりでした。

しかし、これらの話は少しも怖いと思いませんでした。祖母の話し方も淡々としていたし、死や苦しみの先に天国での素晴らしい栄光が待っている、といったことを聞かされていたせいだと思います。ただこの「旅の話」は、そこに登場する守山甚三郎や高木仙右衛門、岩永マキといった人の名前とともに心に残り、やがて切支丹関係文献を漁ったり、旅行先に切支丹遺物を探したりするようになっているのも、その影響だと思っています。

明治政府の切支丹禁教

私たち日本人の多くは、江戸幕府が崩壊して明治維新となり、悪しき封建制度が打ち破られてすぐに、現在のような「信仰の自由」が人々にもたらされたと思っています。しかし、これは大きな間違いなのです。

江戸幕府を倒して、新しい天皇制を基盤とした国の体制を打ち立てようとした明治新政府は、まず江戸幕府が欧米諸国と結んだ不平等条約を改正しなければと考えました。そして第二に、中国のように欧米諸国に食い物にされないために、国を富ませて強い軍隊を持たなければならないと考えたのです。

そのため、欧米の軍隊制度や文明を積極的に取り入れ、一刻も早く先進国である欧米諸国と対等な修好通商条約を結び直そうとしました。「富国強兵」や「文明開化」といわれるものです。

憲法を制定し天皇を君主とする立憲君主制の確立を急ぎ、藩を廃止して道府県制を敷き、教育制度を確立するなどの改革を行いましたが、一般民衆の日々の生活にはまだそう大きな変化はありませんでした。

徳川3代将軍家光によって設けられた宗門改め役という部署は、250年後の明治新政府の時代になってもまだ存続し、相変わらず毎年1月には切支丹詮議のための「絵踏み」が行われ、強固な檀家制度によって「宗門改め」が行われていました。

街の辻つじにはまだ切支丹禁制の高札が掲げられていて、一般民衆にとって切支丹は災いをもたらす邪教、諸悪の根源という認識が何世代もの間に定着していました。江戸幕府の徹底した鎖国政策と切支丹の禁制により、250年以上わが国には一人の神父も宣教師もいない状態が続いたのです。

江戸幕府が定めた切支丹禁教制度には、絵踏み・檀家制度・五人組などがありました。

毎年正月が明けると、すべての人は奉行所や庄屋宅の庭先で、衆人環視の中、踏み絵と呼ばれる切支丹の聖画や聖像を踏まねばなりませんでした。これによって自分は切支丹ではないと公認してもらうのです。これを絵踏みといいます。

また、檀家制度といって、全ての人が仏教の寺の檀家となることが義務付けられていました。勝手に宗派や寺を変えることは許されず。家族に死者が出た場合は檀那寺に届け出てそのお寺の住職に経をあげてもらい、仏教の戒名を授かってやっと墓に葬ることができたのです。村人たちは毎年行われる宗門改めのたびに寺へ行き、自分が切支丹でないことを証明しなければならなかったのです。

五人組制度は5つの家族を一組として作られた隣組制度で、その中にもし切支丹の疑いのある者がいれば直ちに庄屋や奉行に報告せねばならず、何か問題が起こった場合には組ごとに連帯責任を負わされるものでした。切支丹や、伴天連と呼ばれた宣教師を見つけた者には報償を与えるという高札も立てられていました。

このため代々密かにキリスト教を信じ続けた人たちは、表面上は仏教徒を装い絵踏みや宗門改めのたびに、夜家族が皆納戸の周りに集まり、サンタ・マリアを偲ばせる子抱き観音像の前で、「こんちりさんのりゃく」という罪の許しを乞う祈りを囁くような声で一心に祈ったといわれています。

予言

このように250年もの間、一人の司祭も修道士もいない状況で、浦上はじめ主に西日本の各地に「隠れ切支丹」と呼ばれる潜伏キリスト教徒の集団がありました。

彼らは長い年月父祖から伝わった祈りを唱え、伝えられた宗教行事を子孫にも伝えながら、それぞれ個別にその信仰の火を密かに灯し続けていました。

なぜ、彼らは長い年月の間その火を消すことなく守れたのでしょうか。

鎖国と禁教令によって日本にもう宣教師がいなくなったころ、バスティアンという日本人宣教師が迫害を逃れながら主に九州の西彼杵半島で活動していました。彼の作った典礼の暦が木版印刷されて切支丹たちに配られ、彼らの信仰の導きとなっていました。彼は1657年に捕えられ3年後に斬罪によって殉教しましたが、死ぬ前に信仰を守るように信者たちを励まして一つの予言を残しました。それは、

 「今から7代経てば、丸にヤの字の帆を立てて、
 パードレ様が大きな船でやってくる。
 そうしたら切支丹たちは毎週でも
 告解(懺悔)をすることができ、大きな声で
 賛美歌を歌って歩けるようになる。」

切支丹たちがいくら祈っても、遠い地の果ての国に住む彼らはローマのパッパ様からは忘れ去られたかのように、助けはなかなか現れませんでした。

バスティアンの予言がキリシタンたちを励ましていた1653年、ヨーロッパではフランソア・パリュー神父がその協力者ランベール・モット神父とともに、東南アジア布教を進めるために現地人司祭や教師を育成するための布教団体「パリ外国宣教会」を設立しました。この宣教会から後の日本再宣教に具体的な関わりを持つ多くの宣教師たちが、未だ閉ざされた国日本をめざしました。その最初の宣教師がフォルカード神父であり、ジラール、ムニクー、メルメ、ルチュルド、そしてプティジャンといった開国後の日本宣教に大きな役割を果たした宣教師たちがそのあとに続いたのです。(第一部 完)

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参考資料

浦川和三郎 『浦上切支丹史』 国書刊行会
片岡弥吉 『長崎の殉教者』 角川選書
片岡弥吉 『日本キリシタン殉教史』 時事通信社
岡田章雄 『キリシタン風土記』 毎日新聞社
永井隆 『乙女峠』 サンパウロ

2013復活祭号(2013年3月31日発行)より転載

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